林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

メアリーの部屋について本気出して考えてみた ~クオリアは後天的に習得するものである説~

僕は、唯物論や物理主義を信じている。しかし、僕とは違って、神や仏や霊魂の存在を信じている人もいる。

 

"メアリーの部屋"という思考実験がある(マリーの部屋と呼ばれることもあるらしい)。この思考実験は、「この世界にある、ありとあらゆる物事は全て物理的なものである」という物理主義を批判するために考案されたものである。

 

ネットで調べたら分かるけど、一応、メアリーの部屋について説明しておく。

メアリーは白黒の部屋で生まれ育った女性である。メアリーはこの白黒の部屋から一歩も出たことがなく、メアリーは生まれてこのかた色というものを見たことがない。しかし、メアリーは白黒のテレビや白黒の本を通じて、世の中には色というものが存在する事を知っているし、色についての物理的な知識も、全て知っている。

このメアリーが、白黒の部屋から外に出たとき、メアリーは何か新しい事を学ぶだろうか?

 もし、メアリーが、何か新しいものを学ぶとすれば、メアリーは物理的な知識以外の知識を学んだ事になる。ということは、「この世界にある、ありとあらゆる物事は全て物理的なものである」という物理主義は、間違いである。…という結論が導き出される。

 

ってのがメアリーの部屋の概要である。

 

言い換えると、

赤色のリンゴを見たときの、「ああ、赤い!」という、ありありと赤い色を感じる時の質感のことを、赤のクオリアというけれど、はたして、この赤のクオリアは、物理的な現象なのか?それとも、物理的でない超常現象なのか?

 ということである。

 

僕は、この、赤いクオリアは、進化の過程において、ごく自然と獲得された、極めて物理的な現象だと思う。

 

ここで、猿がクオリアを獲得する過程について考えてみようと思う。

 

この間、"地球大進化"というNHKの番組を見たんだけど(めちゃくちゃ面白かった)、その番組のなかで、原始的な猿が、高い視力を得ていく過程についての話があった。

恐竜が絶滅した後も、地上には危険な天敵がたくさんいたので(このうち、ディアトリマという恐ろしい巨鳥は、FFのチョコボのモデルになっているらしい)、ご先祖様たちは、危険な天敵のいる地上には降りることなく、エサとなる果実を提供してくれる広葉樹林の上で、樹から樹へと飛び移りながら暮らしていた。

その暮らしの中で、ご先祖様たちは、樹の上での生活に適応するために、枝と枝との空間の距離を立体的に捉えたり、果実を効率よく探すために、高い視力を持つようになった(他にも、樹の枝や果物を掴めるような手の形になったり、高い視力を利用してお互いの表情を認識する事ができるようになったため、豊かな表情が生まれ、複雑なコミュニケーションがとれるようになったりした)。

 

たぶん、ご先祖様たちは、このように視力を進化させる過程の中で、色のクオリアを獲得していったと考えられる。食べられる果物の色を瞬時に判断するために、色のクオリアがあった方が、どう考えても便利だからである。たぶん、 色のクオリアを持たない猿は、どんどん自然淘汰されていっただろう。

 

ところで、赤のクオリアを持たない猿は、はたして、赤い果実を見つける事ができるだろうか。

例えば、黄色い果実しか見た事がない猿がいたとする。彼は、黄色いものを見るだけでよだれが出てしまうくらい、その黄色い果実が大好物である。

しかし、彼の住んでいる地域には黄色い果実しか存在しないので、彼は赤い果実を生まれてこのかた見たことがない。

ここで、かなり心が痛むけど、彼を、赤い果実しか存在しない遠い地域に強制的に引っ越しさせたとすれば、一体どのような事が起きるだろうか。

引っ越し後、しばらくして、お腹が空いてくると、まず、黄色い果実を探すだろう。めちゃくちゃ必死で探すだろう。この時、赤い果実が視界に入ったとしても、黄色い果実を探すのに夢中で、なかなか赤い果実には注意が向かないのではないだろうか。

しかし、やがて、今まで見たことのない色の果実があることに気がつくはずだ。当然、彼は、それが食べられる果実かどうかは知らない。しかし、樹の枝についている目立つ色のものという点で、黄色い果実とよく似ている。変な臭いがするわけでもない。何より、このまま何も食べなければ死んでしまう。ということで、彼は勇気を出して、その赤い果実を食べるだろう。その初めて食べた赤い果実が「おいしい!」と感じたなら、もっとその赤い果実を食べたいと思うはずだ。

そして、彼は、初めての赤い果実を食べ終わったあと、顔をあげて、辺りを見回した。

何ということでしょう!」と彼は驚いた。さっき、黄色い果実を必死で探していた時とは、全く違う光景が目の前に広がっていた。たくさんの赤色が、彼の目に飛び込んできたのだ。彼は、赤い果実が食べられると言うことを学んだ事で、「ああ、赤い!」という、ありありとしたその果実の赤い色を感じる能力を後天的に習得することができたのである。つまり、彼は、赤のクオリアを手に入れたのである!

以後、彼は赤のクオリアを利用して、赤い果実を探すという行為を何度も何度も繰り返し練習することにより、赤い果実を見つけるのがとても上手になり、エサを食うのに困らなくなりましたとさ。めでたしめでたし。

 

要するに、クオリアは、後天的に学ぶ技術のようなものだと考えられる。後天的に学ぶ技術は、物理的な知識、というよりも、物理的な経験、とでも言うべきなのかもしれない。

とにかく、メアリーが色のクオリアを実感したという現象は、物理的な経験としての色の情報が脳のメモリーに足されるだけの現象であり、何か霊的なものが増えるというような超常現象ではない。

 

また、クオリアは、後天的に学ぶ技術だから、赤い果実を上手に見つけるために赤のクオリアを学ぶ事と、自転車の乗り方を練習して学ぶ事は、後天的に技術を学ぶという点で同じである。

もしメアリーが、テレビと本だけで自転車の乗り方について徹底的に勉強した後、実際に初めて自転車に乗った時、何か新しい事を学ぶだろうか?

もちろん、メアリーは何回も転んだ後、大いに新しい事を学ぶだろうけど、自転車の乗り方を練習するという事は、「自転車を乗るときの体の動かし方という物理的な情報」を脳みそに蓄積していくだけの作業と言える。だから、極めて物理的な現象だと言える。

自転車に乗る感覚も、色のクオリアの感覚も、物理的な範囲の中で起きている普通の現象である。

男女同権について本気出して考えてみた ~弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか~

太宰治の男女同権という本を青空文庫で読んだ。

「男女同権」とは、男の地位が女の地位まで上がったということです。

 という一文から分かるように、彼のいう「男女同権」という言葉の意味は、普通とちょっと違う。要は、彼の言いたかったのは、「女性という弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」というような事かなぁと思う。そういう視点のもと、「おれは今まで女達からこんなにひどい仕打ちを受けまくってきたんだよ!」という事を最初から最後まで、延々とグチグチグチグチ語り続けるだけの話だった。自虐的なギャグ小説と思って読むとまぁまぁ面白かった(太宰治を楽しく読むコツは、共感できるところは普通に共感して、共感できないところはギャグと捉えて笑ってあげるという姿勢で読むと良い)。モテる男も大変だなぁと思った。

 

この話は1948年に書かれたらしいけど、68年後の今の時代でも、女性の権利については改善されたと思うけど(完全に改善されたというわけではないかも)、「弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」と言いたくなる場面は、かなり頻繁にあるのではないかと思う。

 

例えば、戦前の日本の行いに対して未だに文句を言っている中国や韓国なんかにも、「弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」と言っても良いと思う。中国や韓国の反日を見ていると、弱者である事は、デメリットばかりではないという事が分かる。

 

「弱者のメリット」の良い例として、「一夫多妻制」がある。一夫多妻制ではオスの方が死にやすい、という話を聞いたことがある。

一夫多妻というと、女は政略結婚ばかりさせられて、自分の意思で男を選べないし、男の権力に比べて女は何の権力もなく、男の言うがままになるしかない、というようなデメリットは確かにある。

しかし、野生のライオンとかを見れば分かるけど、確かに、一握りの強いオスは、多くのメスを従えて、一日中寝っ転がったりセックスしたりするだけの良い身分であるに違いないけど、一握りの強いオス以外は、群れからはぐれてたった一匹で生活しなくてはいけない、という厳しい危機的な状況に陥る。たぶん、こうした一夫多妻制の社会では、オスよりメスの方が、自分でオスを選べないというデメリットはあるけど、よっぽど不細工なメスでもない限り、生き残ること自体は比較的簡単である。

まぁライオンの例えはかなり極端ではあるけど、ライオンと同じ哺乳類の動物である人間の社会にも、似た部分はあると思う。

 

しかし、現代の人間の世界では、男女同権ということで、強者も弱者もないという世の中になり、男女間においては、弱者として弱者の戦法を使うことは、少しやりにくくなったのかもしれない。

しかし、中国や韓国の反日の例で挙げたように、現代においても、そういう戦法はわりと利用されている。

 

例えば、ネット炎上なんかも、弱者側のネットの住人達が、強者側(テレビに出ている有名人とか)の些細な不祥事をクソミソに叩きまくるのも、弱者の心理から起こっている事だと思う。

最近では、弱者の戦法を、弱者の戦法で破るみたいな、いわば弱さの競争みたいな、変な図式になったりもしている気がする。ちょっと前に、NHKで紹介された貧困女子学生が影で贅沢していたという事で炎上したのが話題になってたけど、それも、貧困女子学生の使う弱者の戦法を、ネットの不特定多数の弱者が叩くという、弱さの競争の図式になっていたと言える気もする。

 

太宰治が男女同権を書いてから68年の年月が過ぎても、弱者の立場を利用して暴力を振るう人はあとをたたない。

 

でも、そもそも、キリスト教の教えにだって、弱者優遇の思想が組み込まれている(金持ちは地獄に落ちるけど貧乏人は天国に行ける、的な思想がある)くらいなので、もう、この弱者の論理は、人間が普遍的に持っている本性ではないかという気がする。ニーチェがいうところのルサンチマン("妬み"みたいな意味の言葉)を、誰でも持っている。

 

僕は、ニーチェもちょっと好きなんだけど、ニーチェも、「ルサンチマンを克服しよう」と言っていたけど、それも弱者の論理を使うのは良くないという事が言いたかったんじゃないかと思う(ニーチェ自身がルサンチマンを完全に克服していたとは思えないけど)。しかし、残念ながら、人類は、永遠にルサンチマンを克服出来ないような気がする。

だから、太宰治ニーチェも女性も中国も韓国も貧困女子学生もネット民も僕も、みんな弱者の戦法を思う存分使っている気がするけど、もうそれはそれで仕方がないと割り切るしかない。

 

個人的には、弱者の戦法を使うのはちょっと格好が悪いと思っている。例えば、僕は別に巨人ファンではないけれど、アンチ巨人の人はすごく格好が悪いと思っている。

僕は、弱者の戦法を、めちゃめちゃ使いたいといつも思っている。使いたいけど、無駄にちっちゃなプライドを持っているおかげで、それを使うのを必死で我慢している。そして、必死で我慢しているからこそ、何のプライドも持たず自分が弱者であることをおおっぴらに認めてグチグチ言っている人間に対して、「なんて格好悪い人間なんだろう」「あんな人間には絶対になるもんか」「ギャグとして見れば面白いかも」と、僕は思ってしまう。太宰治の何の話か忘れたけど、悪徳は悪徳を発見する、という言葉があるけど、僕が弱者の戦法を使っている人をすぐ見つけられるのは、僕自身がそういう人間だからに他ならないという気もする。

受動意識仮説のおかげで長年の謎がすっきりした!!

最近、youtubeで無駄知識を増やすのがマイブームなんだけど、その一環で、昨日、何となく面白そうだと思って見てみたのが、慶応大学の前野隆司氏の受動意識仮説についての講義の動画だった。めちゃくちゃ面白かった。僕が子供の頃から不思議に思っていた哲学的な問題が、やっと解決した。ネットでこんな講義を無料で見られる時代に生まれて良かったなぁと思った。

 

 まず、個人的に昔から疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について述べる。

僕は、子供の頃から朝起きるのが苦手で、いつも遅刻するかしないかのギリギリまで蒲団から脱出できなかった。特に、寒い冬の朝なんかは、起きるのが苦痛だった。暖かい毛布にくるまりながら、「もう一生この暖かい蒲団から起き上がりたくない」という気分になるのが日常茶飯事だったんだけど、意外と、一生起き上がる事が出来なくなってしまった、なんて事態は一度も起こらなかった。

どんなに「蒲団の外に出たくない!」と心から強く念じていても、ある瞬間、ふと、やる気が湧いてきて、何とか暖かい毛布から這い出して、服を着替え、朝ごはんを食べて、ドアを飛び出して、学校や会社に向かっている途中で、ふと憂鬱な気分になり、「あれ?おれはいつの間に電車に乗っているのだろう?あんなに起き上りたくなかったのに、なんで起き上がる事ができたんだろう?」なんて思ったりした事が、何度も何度もあった。

この、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について、僕は深く考えた。この問題はたぶん、「人間は自動ロボットのようなものである」と考えれば上手く説明できるのではないか、という結論に僕は辿り着いた。例えば、ボーリング玉に衝突されたピンが、運動法則に従って飛び跳ねるみたいに、人間という自動ロボットも、まぁボーリングよりは複雑な法則に従うにしても、ある衝撃が何らかの物理法則に従って脳みそに伝わって複雑に処理された結果、自動的に、適当な動機を生み出す事により、暖かい蒲団から僕を脱出させているのではないか、と考えたのである。

17世紀の西洋の哲学者のスピノザという人は、僕と似たような考え方の持ち主で、人間を「投げられた小石」に例えたらしい。スピノザによると、人間は、投げられた小石みたいに自分の意志とは関係なく投げ飛ばされただけなのに、自らの力で飛んでいると勘違いしているに過ぎない、というのである。僕のイメージにぴったり当てはまる考え方だと思った。

 

こうして、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」は、スピノザの「投げられた小石」説にお墨付きをもらって、僕の中では完全に解決されたのように見えた。

 

しかし、そうすると、また別の問題が僕の中に浮かび上がってきた。

本当に僕は、「投げられた小石」が運動法則に従って飛んでいるだけの存在なのだろうか。例えば、ジャンケンで、僕がグー・チョキ・パーのどれかを選んで出すという行為についても、僕がどの手を出すのかは、事前に無意識下で決められているとでも言うのだろうか。まるで運命みたいに、ジャンケンの勝ち負けがあらかじめ決まっているみたいな事があり得るのだろうか。僕は今まで、ジャンケンの時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!チョキを出そう!」と考えてから、チョキを出していたはずなのに。

もし「投げられた小石」説が正しいならば、ジャンケンの手は、「僕はチョキを出そう」と決断する前に、無意識下で既にチョキを出す事は決定されているという考え方が正しい事になる。でも、常識的に考えて、本当にそんな事ってあるだろうか?やっぱり「投げられた小石」説は間違っているのだろうか?

例えば、「チョキを出すぞ!」と一回決断した後、手を前に出す直前、「いや、やっぱりグーだ!!」と思ってグーを出した場合はどうだろうか。とっさに出したグーですら、やっぱり、自動ロボットのように、投げられた小石のように、咄嗟にグーを出す事が運命だったみたいに、自分の意思とは関係なく決まっていたのだろうか。僕のモヤモヤは消えなかった。

 

それが、つい昨日、前野氏の講義おかげで、きれいに解決した。

 

なんと、僕がジャンケンで感じていた疑問と、ほとんど同じような疑問を、なんと今から33年前に、きっちりと実験によって解決してくれていた人がいたのだ。

その実験とは、 カリフォルニア大学のベンジャミン・リベットという人によって行われた、「”指を動かそう”と意図する実験」である。

この実験では、

  1. 指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられる瞬間
  2. ”指を動かそう”と意図する瞬間
  3. (最終的に指の筋肉が動く瞬間)

のうち、①と②はどちらの瞬間の方が早いか?というのを調べたらしい。日常的な感覚で普通に考えると、②”指を動かそう”と意図した後に、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられて、③最終的に指の筋肉が動く、という順番が正しいはずである。

つまり、②⇒①⇒③という順番が正しいと思われる。指を動かす時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!指を動かそう!」と考えてから、脳の指令が発せられて、その指令が指に到着して、指が動き出す、というのが自然な考え方である。

しかし、実験の結果は違った。

なんと、②”指を動かそう”と意図するよりも、0.35秒前の段階で、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられていた、という驚くべき実験結果が出たのである。

つまり、①⇒②⇒③という順番が正しかったのである(ちなみに②⇒③は0.2秒差だったらしい)。

 

なぜこんな実験結果が出るかを説明するための理屈が、「受動意識仮説」だというのである。

 

受動意識仮説とは、「人間の意識は、無意識下の自律分散的情報処理結果に受動的に注意を向け、あたかも自らが行ったかのように幻想体験し、エピソード記憶するための(無意識に対して受動的な)存在である。」という仮説である。

 

人間の意識は、人間の行動を決定する存在ではない。ただ単に、無意識下で作られたエピソード記憶を体験するだけの存在なのだ。だから、実は、意識する前の時点で、自分の行動は全て無意識下で決定済みという事になる。無意識下で自動的に情報処理がなされた後、指を動かすという指令が脳から筋肉に向けて発信されて、その指令が発信された0.35秒後にやっと、「指を動かそう!」という意思を受動的に感じる事ができるのである。

 

「指を動かす実験」の他にも、受動意識仮説を裏付ける実験結果はどんどん出て来ているらしくて、僕の見た前野氏の講義の中だけでも、いくつかの興味深い実験が紹介されていた(特に、分離脳患者の実験が面白かった)。

 

この受動意識仮説は、今まで僕が聞いた中で、一番しっくりきた。

今まで疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」も「ジャンケン問題」も、全てこれで説明ができるし、本当にすっきりした。意識のあるロボットは、物理的な問題さえクリアできれば普通に作れるようになる日が来るかもしれないと思った。

 

まとめ

  • 人間は、エピソード記憶を作るために、意識を体験している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るための機能として存在している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るために、無意識下において自動的に行われた無数の情報処理の結果を、あたかも意識自身が自分の意図で情報処理したかのように幻想体験するだけの脇役みたいな存在である。
  • 意識という存在は、何らかの行動を起こすために存在するのではない。「指を動かす実験」の通り、無意識下で指を動かすという決定が下された後でなければ、「よし!指を動かすぞ!」という意思を持つ事すら出来ない。

 

 

ところで、哲学的ゾンビについて、受動意識仮説を当てはめて考えると、哲学的ゾンビは存在しないという結論に思い至った。

哲学的ゾンビは、「普通の人間と全く同じだけど、意識を全く持っていない人間」と定義されるけれど、”意識を持っていない哲学的ゾンビ”は、”意識を持っている人間”と比べて、エピソード記憶を作る能力にどうしても差がついてしまうのではないだろうか、という気がする。

受動意識仮説によると、「意識」=「エピソード記憶を作るための機能」という事が言えるけど、哲学的ゾンビは意識を持っていないので、エピソード記憶を作るための機能」も持っていない哲学的ゾンビエピソード記憶を作るための機能」を持っていないという事は、人間と同じようなエピソード記憶を作る能力を持っていない。

果たして、エピソード記憶を作る能力を持っていない哲学的ゾンビは、人間と同じように振舞う事が出来るだろうかというと、たぶん無理だろう。人間と同じように振舞えない哲学的ゾンビは、「意識を持たないということ以外は全て普通の人間と同じ」という哲学的ゾンビの定義に反する事になるため、哲学的ゾンビは存在しない、という結論が導き出せるのではないだろうか。

正直、僕は哲学的ゾンビの話が好きなので、「哲学的ゾンビが絶対に存在しない」だなんて、あまり言いたくないけど、受動意識仮説を当てはめると、そういう結論が出てしまった。誰か間違いを指摘してくれないかなぁ。

哲学的ゾンビについては、また気が向いたら書くかもしれない。

 

ところで、前田氏の受動意識仮説については全面的に納得したけど、前田氏の最新の本が、「人生が変わる!無意識の整え方 身の心もなぜかうまく動き出す30の習慣」というタイトルなんだけど、「意識的に無意識を整えるのって、無理なんじゃないの?」「受動意識仮説と矛盾しないの?」「そんな簡単に人生が変わる!なんて言っちゃって良いんですかねぇ?」という疑問が湧いてしまった。なんだか、浄土真宗でいう「他力本願」という言葉の「他力」というのは、一体、どこからどこまでが「他力」で、どこからどこまでが「自力」なの?みたいな疑問と似ているかもしれない。というような事を、本を全く読んでもいないにも関わらず、妄想してしまった。他力本願と受動意識仮説は良い意味でも悪い意味でも似ている気がしてきた。これらの考え方を理解する事で、心が救われるような人も、堕落する人もいるだろうし、そもそも理解できない人もいるだろうなぁ。僕は、阿弥陀仏なんか全く信じていないのに、「自力によるの努力をやめて、阿弥陀仏の他力本願の力に帰依するだけで良い」という考え方をすると心が軽くなるのは、なぜか自然と理解できる気がするんだけど、「受動意識仮説によって、自分の意思決定の0.35秒くらい前の段階で無意識に全てが決定してくれている」という考え方についても、他力本願の考え方と同じように、心が軽くなる気がした。僕は、阿弥陀仏よりは受動意識仮説の方が断然納得できるんだけど、結局、自分の気持ちを軽くするための道具として捉えるのであれば、僕にとってはどちらでも構わないのかも。

 

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日本は今のタイミングで移民を受け入れといた方が良い説

この間YouTubeで見た動画が面白かった。この500年間における世界の覇権国の栄枯盛衰について、ユダヤ人の足跡を辿りながら説明するという講義の動画で、講師の高原剛一郎氏のかなり勢いのある話し方も面白かった。

 

詳細はまぁ動画を見れば分かるんだけど、一応、僕なりに(かなり乱暴に)内容をまとめてみた。

 

旧約聖書に、「ユダヤ人を祝福するものは祝福され、ユダヤ人を呪うものは呪われる」みたいな一文があるらしい。なんと、この旧約聖書の一文が、この500年の世界史を見事に説明しているという。つまり、ユダヤ人を優遇した国は急に栄えて覇権国となり、やがてユダヤ人がその国に見切りをつけると、急に覇権国の座から没落する、というパターンで世界史は展開されているらしい。

15世紀16世紀あたりのスペイン・ポルトガルでは、中世イスラム社会で重用されていたユダヤ人達がイベリア半島にいたおかげもあって黄金時代を築いたけど、次第にカトリック勢力が拡大してきて(いわゆるレコンキスタ)ユダヤ人の肩身が狭くなった。異端審問によるユダヤ人迫害がなされるようになると、ユダヤ人は逃げてしまって、ユダヤ人のいなくなったスペイン・ポルトガルは没落した。

で、その異端審問で迫害されたユダヤ人が逃げていった先が、オランダという国で、17世紀の覇権国はオランダという事になった。オランダはプロテスタントが多い国で、スペイン・ポルトガルでの異端審問ではプロテスタントも同じように迫害されたらしく、迫害された者同士ということで、オランダはユダヤ人に寛容だったらしい。しかしオランダがスペインとの長い戦争(なんと80年もやってたらしい!)で疲弊し、勢いをなくしてしまう。

次は、18世紀19世紀の覇権国はイギリスという事になるが、この時代のイギリスは最もユダヤ人に寛容といっても良いくらいユダヤ人に寛容だったらしく、ディズレーリという人は、ユダヤ人でありながら、なんとイギリス首相にまで登り詰めたらしい(しかも、"ディズレーリ"という名前は、イスラム教でいうところの"ムハンマド"的な、名前を聞いたら一発でユダヤ教徒であることがバレるという感じの名前だったらしい)。彼はユダヤ人のコネを生かし、ロスチャイルド家の資本でスエズ運河会社の株を買収するという敏腕ぶりを発揮したという。

で、二度の世界対戦でイギリスが疲弊した後、ユダヤ人の国、イスラエルが建国される。そのイスラエルに最も好意的だったのがアメリカだった。こうして覇権国の座はアメリカへと完全に移行する。

 以上の事から、「ユダヤ人を祝福するものは祝福され、ユダヤ人を呪うものは呪われる」という旧約聖書の予言はことごとく当たっているということが分かりますよね!!

 

…とまぁ、だいたいこんな感じの事が講義の中で話されていた気がする。

 

僕がこの講義を聞いて感じたのは、国の栄枯盛衰のひとつの要素として、優秀な人材を確保するのはかなり重要なのかもしれないということ。「ユダヤ人だろうが何だろうが、能力のある人間なら誰でも良いから俺の国に来てくれ!」というオープンな姿勢が、国を繁栄させるためには大事なのではなかろうか。

今の日本も、移民をもっと受け入れても良いんじゃないかと思った。最近世界では日本が流行っているとテレビでもよくやってるし、今、このタイミングで日本が移民を受け入れるという事を決断すれば、日本が好きで能力の高い移民が集まりやすいという気もする。もちろん弊害も大きいかもしれんけど(例えば、日本人の職が奪われるとか、治安が悪くなるとか、日本に対して悪意を持っている国が政治的な意図を持って移民をどんどん送り込んでくるとか)。まぁ上手く厳選して移民を受け入れるのであれば、優秀な人材をたくさん集めるという観点において大きなメリットがあるかも。そして、その優秀な人材をたくさん集めるという事こそが、国の繁栄の秘訣なのかも。という事は、もしトランプがアメリカ大統領に当選したら、彼はわりと排他的な政策をやりそうな感じなので、アメリカはちょっと衰退するかも。

 

あと、ユダヤ人は少数派で嫌われ者なのに、何故こんなに重要なポジションにいるのかを考えたんだけと、たぶん、少数派で嫌われ者だからこそ、彼らは必死で勉強したのかもしれないという気がする。ユダヤ人の歴史は、それこそ常にサバイバルだったから、世の中を上手く渡っていくための嗅覚みたいなものが自然と身に付いてしまったのかも。また、生活の上でユダヤ教の規律を守ることで、団結力を高めてたってのもあるかも。ユダヤ教という一見かなり面倒くさい縛りプレイをして皆から嫌われるという事が、苦労をものともしない精神を育てたのかも。イスラム教にもかなり面倒くさそうな戒律があるけど、それも団結力を高めるために必要だったりして。宗教って良くできてるなぁ。まぁ僕は信じないけど。

 

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ドゥテルテ大統領の麻薬中毒者虐殺について

僕が働いていた職場で、安い飛行機を見つける度に有給を取って、海外旅行に行きまくる課長がいた。アジアへの便は特に安いのが多いらしくて、アジア方面にはわりと見識が広い人だった。

ある時、その課長が、フィリピンのマニラに行ってきたらしく、

「とにかく、貧富の差が激しかった。街は都会だけど、ほんのちょっと街の中心から外れると、人権もクソもないような人間達がたくさん暮らしていた。おれ達の抱く仕事での悩みなんてどうでも良くなってくるなぁ!色々あるけどたぶん何とかなるって!まぁ林くんも頑張れよ!」

というような事を言っていたのを覚えている。

 

最近、フィリピンのドゥテルテ大統領のニュースをよく見る気がする。昨日のニュースで読んだけど、ヒトラーのユダヤ人虐殺になぞらえて、「数百万人の麻薬中毒者を喜んで殺害する」と大っぴらに言ってのけたらしい。ヒトラーだってユダヤ人虐殺はこっそりやってたんじゃなかったっけ?

僕は、彼に少し興味を持ったので、ウィキペディアを読んで見る事にした。

すると、彼はヒトラーというより、スターリン毛沢東に近いというか、わりと共産党色の強い人間らしいという事が分かった。素晴らしい正義を振りかざしておいて、その正義を否定する人を徹底的に叩き潰すスタイルは、僕の思う共産党のイメージにぴったりな気がする。

というのも、彼の大学時代の恩師が、フィリピン共産党の創設者(ジョマ・シソン)だったらしいし、実際に共産党員には協力な姿勢を見せているらしいし、アメリカ大統領選では、民主党のサンダース(わりと共産っぽい考えの人だった気がする)を推していたらしい。でも、南シナ海の件では、中国共産党に文句を言っているらしい(今のところ?)。

 

彼が大統領になったのは2016年の6月30日でわりと最近の出来事だけど、それ以前は、二十数年間もの長い間、ダバオ市長をやっていたらしい。で、麻薬中毒者虐殺に関しては、そのダバオ市長時代からひっそりヤっていたらしい。しかしそのおかげで、ダバオ市は「東南アジアで最も平和な都市」を標榜するくらい治安が良い街になったらしい。実際に治安が良くなったのもあって、麻薬中毒者虐殺はどんどんやるべき!という人もいて、実際、彼はそういう公約を掲げて大統領選挙に勝ったとのこと。確かに、フィリピンというのは、人権もクソもない国なのかもしれない。

 

例えば、フィリピンには、めちゃくちゃ貧乏で麻薬と関わることでしか生きていけないような境遇の人だっているかもしれないけど、たとえ麻薬中毒者だったとしても、そういう人を殺すのは可哀想だなぁとは思う。現代のフィリピンで、こんなに適当に人の命が扱われているなんてびっくりした。まぁ日本でも「金は命より重い」とか言ったりするけど。

 

ともかく、命が重いとか軽いとか、人殺しが良いとか悪いとか、そういう事についての絶対的な基準はない、と改めて思わされた気がする。あと、ドゥテルテ大統領は、自分のやっている事が正しいと思っているかどうかは知らないけど、もし、絶対的に自分が正しいと思ってやってるとしたら、ちょっと怖いなぁと思った。まぁ誰だって多かれ少なかれそんな一面があるのかもしれないけど。

 

フィリピンってキリスト教徒が多かった気がするけど、もし、イエス・キリストが現代のフィリピン人だったら、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この麻薬中毒者を殺しなさい」とでも言うんじゃないかなぁ。

親鸞のやさしさに包まれたなら 全てのことはメッセージ

最近、「100分de名著」というNHKの番組を見るのがマイブームなんだけど、”歎異抄”の回を見て、すごく感銘を受けた。神仏を1ミリも信じないこの僕が。

 

歎異抄は、親鸞の教えについて親鸞の弟子が書いた本らしい。

僕が中学生の頃、鎌倉仏教の3人(法然親鸞・一遍)について習ったけど、「一遍の踊り念仏は逆にロックンロールでかっこいいから良いとしても、ナミアムダブツと唱えるだけで、”他力本願”で人が救われるという法然親鸞だけはありえない!」みたいな感想だった気がする。

 

歎異抄は「誤解されやすい本」と言われているらしいけど、僕はどうやら今まで親鸞の言う他力本願を誤解していたらしい。

 

僕は、親鸞の教えを、自分なりにこんな風に解釈した。

  1. まず、「自分の力で何かを変えよう」という一切の努力を放棄する。
  2. ”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、あるがまま受け入れる
  3. あるがままの”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、阿弥陀如来というありがかい神様が、「もう自力で頑張らなくても良いのよ」と抱きしめて許してくれる
  4. すると、かえって逆に、「阿弥陀如来がいくら全てを許してくれるとは言っても、おれはここだけは絶対にゆずれねえ!」というような、自分の心の奥底にある自然な意思に気づくことができる
  5. 自力で無理矢理に頑張るというのではなく、自分の自然な意思に従って行動できるようになる

僕は阿弥陀如来の存在なんて1ミリも信じていないけど、やさしい微笑を浮かべた阿弥陀如来をイメージして目を閉じてみたら、なんだか心が軽くなるような気がした。

阿弥陀如来の存在はウソだったとしても、庶民を救いたいがために、一生懸命こういうことを考えてくれた法然親鸞のやさしさは紛れなく本物に違いないような気がしてきて、それだけですごく有り難い気持ちになったような気がした。

 

 

 僕の妄想なんだけど、たぶん、法然はやさしさの塊のような人間で、「修行僧以外の普通の人を救いたい」という一心から、阿弥陀如来を利用して、それまでの仏教のやり方を180度逆転させるような革命的なことをやってしまって、親鸞と仲良く一緒に流罪になった。法然はやさしいだけでなく、ロックンローラー的な性格だったのかなぁ。

 

親鸞もやさしさとロックンロールを兼ね備えた人だけど、僧侶のくせに堂々と結婚して6人も子供を作ったところとか、法然以上にロックンロール色が濃いかも。

たぶん、法然に出会う前の親鸞は、「このまま修行を一生続けたとしてもおれの煩悩は一生消すことはできないのではないか?」ということに悩んでいた矢先に、法然阿弥陀如来方式の教えに出会い、そしてだんだんと親鸞オリジナルの方向へとルールを修正していったんじゃないかなぁ。

 

法然親鸞も、今までの仏教にはとらわれずに、「ともかく世の中の人を救いたい」とか、「どんなに修行しても消せない自分の煩悩にウソをつきたくない」とか、そういう思いが根底にあったんじゃないかなぁ。「人が救えるんなら神仏がいようがいまいがどっちでも良いじゃん」とか言いそう(さすがに言わんか)。

だから、たまたま仏教が流行ってた時代の日本に生まれたけど、もし生まれる時代や場所が違ったら、普通に政治家とか、哲学者になってたんじゃないだろうか。

”人は怒りを捏造する”にどうしても納得できない人へ【アドラー心理学】

アドラー心理学のベストセラー、嫌われる勇気の中で、こんな事例が挙げられている。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。普段は温厚な私だけど、その時ばかりは怒りに駆られて、つい思わず大声で怒鳴りつけてしまった。」

 

この事例をアドラーの目的論で解釈すると、こんな風に言い換えることができる。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。大声を出して怒鳴りつけることで、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分の言うことをきかせるための手段として、怒りという感情を捏造し、利用した。」

 

つまり、

「私はウェイターにコーヒーをこぼされた」ことが原因で仕方なく怒ってしまったのではなく、「大声で怒鳴りつけてミスを犯したウェイターを屈服させる」という目的のために怒りの感情をわざわざ捏造した。

というのがアドラーの目的論的な考え方である。

 

 

嫌われる勇気を読んでいて、僕が疑問に思ったのは、「”ミスを犯したウェイターを屈服させる”みたいな複雑な事を一瞬のうちに考えて怒るほど人間って高度な生物なのかなぁ?」ということ。

しかも、それが正しいという科学的根拠があるとは一切述べられていない。

 

疑問に思った僕は、自分なりに調べてみることにした。

 

先程の「ウェイターがコーヒーをこぼして私が怒った」という事例において、私が怒るに至った経緯を簡単に説明すると、次のようになる。

  1. ウェイターが私にコーヒーをこぼす
  2. 私に外的刺激が与えられる(私にコーヒーがかかる)
  3. 外的刺激に対して、機械的な生体反応(緊張・発汗・心拍増加・血圧上昇…etc)が起こる
  4. 自分の機械的な生体反応を私自身が認知する
  5. 今までの常識や習慣に基づいて、今自分が置かれている状況に適切な感情を選択する(感情をラベリングする)
  6. 選択された感情が”怒り”である場合、”怒り”の感情に基づいて行動を起こす
  7. 大声を出してウェイターに怒鳴りつける

これらのことが無意識下で一瞬のうちに行われる

 

どのような順序で感情が生まれてくるかというのは未だに結論が出ていないらしい(情動を巡る論争)けど、”シャクターの情動二要因理論”が一応主流っぽい気がしたので、ここではそれを参考にした。

シャクターの情動二要因理論で有名なのは、吊り橋実験である。

この実験では、被験者の男性は「吊り橋を渡る恐怖感によるドキドキ」を「魅力的な異性と対面したドキドキ」と間違えて認知してしまう。

つまり、同じ生理学的変化(心拍数の増大や緊張の増大)から、生理学的変化がどういった感情や状況によるものなのかを推測して、適切な感情をラベリングするという無意識的(潜在的)な過程が存在すると考えられている。

 

 

で、もう一度「ウェイターにコーヒーこぼされた事件」に話題を戻す。

例えば、「ウェイターが筋肉ムキムキ身長2mの黒人男」だった場合を考えてみて欲しい。おそらく、私は怒りの感情をラベリングするのではなく、恐怖の感情をラベリングして、大声で怒鳴りつけることは絶対にしなかっただろう。

今度は、「ウェイターが魅力的な異性」だったらどうだろうか。この場合は、怒りでも恐怖でもなく、恋愛感情をラベリングして、連絡先を交換しようとするかもしれない。

 

 つまり、「無意識下において、その場その場における適切な感情を選択している」ということが言えるんじゃないかと思う。

 

 

結局、アドラーのいう「人は怒りを捏造する」は、少し間違えていると思う。

「人は怒りの感情を選択する」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

 

「人は怒りを捏造する」というと、あたかも自分の感情を自由自在に変えることができるような錯覚に陥ってしまう。

しかし、実際には、感情をラベリングするのは無意識下のことなので、自由自在に感情を変えることはできないはずだ。

もちろん、無意識に体に染みついたその人の習慣や常識を、少しずつ変えていくことも可能だと思う。しかし、それは「地道にスポーツを練習してだんだん上手くなっていく」のと同じように、強い意志を持って努力しなければ、無意識下の習慣や常識は簡単には変えられないのが普通なのではないだろうか。

あたかも「アドラーの教えを聞いたら途端に自分が変わって幸せになる」みたいな文章を見かけることもあるけど、そんなウマい話があるわけない。やはり、「自分を変えるには、無意識下の習慣や常識を地道な努力によって変えていくほかない」し、「もちろん地道な努力をしたところで本当に自分が変われるという保証も全く無い」ってのが現実なんじゃないだろうか。

 

アドラー心理学の納得できないこと3つ

僕はアドラー心理学には納得できないけれどアドラーのことは嫌いではない。というか素直にアドラーは偉人だと思う。

 

アドラーは幼い頃、声帯のけいれんとくる病に苦しんだ。肺炎で死にかけた。弟が感染症で死んだ。運動が苦手だった。学校の成績が悪くて、学校を中退して靴屋への弟子入りを勧められたこともあった。健康で優秀な兄に劣等感を抱いた。自分以外の兄弟をかわいがる母親と不仲だった。身長は150cmまでしか伸びず、他人から見下ろされるのがコンプレックスだった。

しかし、アドラーは逆境に負けず劣等感をバネにして頑張った。強靭な意志をもって努力を続けた。その結果、立派な精神科医・心理学者として後世に名を残した。

 

現代の日本で、”嫌われる勇気”等がベストセラーとなり、アドラーブームが巻き起こっているのは決して不思議なことではない気がする。実際に、アドラーの生き方や思想に触れて、”勇気づけ”られている人は多いと思う。

 

でも、「アドラーが偉人であるがゆえに、アドラー心理学では多くのことが見落とされている」と僕は思う。

たぶん、アドラーの掲げる目標が高すぎて、現実からかけ離れた極端な理論になってしまっている(極端だからこそアドラーブームが巻き起こったのかもしれないけど)。

アドラーの言う、「原因論より目的論」というのは、あたかも100%正しいように聞こえるけど、あまりに高すぎる目標や現実的でない目的を掲げてしまうのは間違いである。”過ぎたるは猶及ばざるが如し”である。

アドラーの妻や友人が社会主義者だったらしいけど、社会主義の現実離れした思想から多少影響を受けた部分もあったのかも。

 

 

 

僕がアドラー心理学に対して、納得できない(訂正した方が良い)と思う点は、次の3つ。

①トラウマは存在しない

②承認欲求の否定(他者から承認を求めてはいけない、褒めてはいけない)

③幸福とは貢献感である

 

 ①「トラウマは存在しない」について

アドラー心理学において、「目的を重視する」という考え方には納得できる。原因が何かを突き止めるよりも、これからどうするかということを考えることの方が大事、というのは、もっともなことである。

 だがしかし、「トラウマは存在しない」は明らかに言い過ぎである。

 

例えば、僕が風邪のような症状で病院に行ったとする。

僕としては、それが風邪ウイルスだろうがノロウイルスだろうがインフルエンザウイルスだろうが、適切な治療を行ってくれるならば医者に対して何も文句はない。

逆に、正確な病原菌の種類を教えてくれたとしても、治療方法がさっぱりわからない、という医者は嫌だ。原因なんてどうでも良いからとにかく治してほしい。

 

この例の場合、「病原菌なんて存在しない!」と断言してしまうのは明らかに間違っている。「病原菌なんて大した問題じゃない!とにかく治してくれ!」くらいの言い方が適切だろう。

 

つまり、「トラウマなんて存在しない!」じゃなくて、「トラウマなんて大した問題じゃない!」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

トラウマにとらわれず、目的に目を向けることは確かに重要かもしれないけど、だからといって「トラウマが存在しない」と断言するのは明らかにおかしい。

 

②承認欲求の否定

承認欲求を否定するのはやり過ぎだと思う。

 

確かに、他人から褒められることだけに喜びを感じる人は、哀れで不幸な人間だと思う。

承認欲求を否定すれば、そのような不幸な人間になることを防ぐことができる。

が、それよりもっと現実的な代替案がある。

  • 承認欲求以外の欲求を満たすことによって、相対的に承認欲求を小さくする

という方法だ。なにも人間の本能的な欲求を消そうなんて無茶する必要はない。

ゲーム好きな少年が寝るのを忘れて徹夜でゲームができるのはなぜかといえば、少年が寝るのを必死でガマンしているからではなく、ゲームに夢中だからである。この場合、ゲームをしたいという欲求を満たすことによって、相対的に睡眠欲求が小さくなり、寝ることを忘れてしまうのである。

  

それから、アドラーは賞罰教育を厳しく批判したらしい。子供を褒めることすらもダメらしい。

しかし、だからといって「褒めるのがダメ」というのは明らかにやり過ぎだと思う。

褒めることや叱ることそのものが間違っているのではなく、褒め方や叱り方に問題があるというだけなんじゃないかと思う。つまり、不適切な褒め方が悪いのであって、適切な褒め方をすれば良いというだけのことじゃないだろうか。

 

もちろん、何でもかんでも褒めて褒めて褒めまくって子供を育てれば、褒められなければ何もしない子供に育ってしまうかもしれない。

しかし、褒めることで自然と愛情を伝えることはかなり重要だと思う。”適切な褒め方”で子供を褒めれば、普通に自立した子供に育つんじゃないだろうか。

(”適切な褒め方”というのは、例えば、”子供が自発的にしたことについて褒める”、”成功や失敗ではなく、努力そのものを褒める”、”他人と比較して褒めるのではなく、子供自身の成長を褒める”…etc)

 

 

③幸福とは貢献感である

確かに、他の誰かに貢献していると感じることは、幸福感のひとつの種類であると思う。しかし、幸福は貢献感だけではない。というかむしろ、人によっては、それ以上の幸福感が存在する。

 

ビートルズが大好きな友人が、「ジョンとポールがハモり、ビートルズが演奏する。それだけで最高じゃないか」と言っていたんだけど、例えば、ジョン・レノンにとって、「良い曲を作って、歌って、演奏する」以上の幸福はありえないんじゃないだろうか。誰かに貢献するとか貢献しないとか、”イマジン”で反戦ムードが高まったとか、そんなことは彼の幸福感に全く影響を与えなかったんじゃないだろうか。

 

アドラー心理学では、「共同体感覚を持って、他者に対して貢献する。それだけで最高じゃないか」みたいなことが言われているけど、確かにアドラーにとっては貢献感こそが幸福だったんだろう。でも、全ての人がそうではない。貢献感以外の幸福は存在しないというのは明らかに言い過ぎである。

 

「幸福とは貢献感である」と断言してしまうと、貢献感以外の幸福がまるで存在しないかのように感じる人もいると思う。だから、「貢献感によって幸福を感じることができる」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

「能力不足」でクビになった大阪市職員は「ADHD」だと思う

大阪市橋下徹市長の主導で2012年に制定された「職員基本条例」に基づいて、職員2人が民間で言う解雇にあたる「分限免職」の処分を受けた。

2015年9月30日付で免職になったのは、都市整備局の男性技術員(43)と港湾局の男性事務職員(33)。それ以外にも同局の女性事務職員(46)が降任(降格)処分を受けた。


免職の理由は「能力不足」。

大阪市人事によると「1年以上かけて指導等を実施してきたが、公務員として通常要求される勤務実績や適格性が欠けていると判断し、免職処分とした」とのことだ。



具体的には、次のような点が「能力不足」だったらしい。

①事務手続きで初歩的なミスを繰り返し(エクセルに正しく数字を打ち込めない)、常に他の職員の支援が必要な状態だった。

②指示された書類作成の仕事ができたか上司から尋ねられて「作っています」と作業完了を報告したにもかかわらず、実際には着手すらしていなかった。上司が問いただすと意味の分からない言い訳を繰り返した。

③いわゆる「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」ができないなど、上司や同僚とコミュニケーションが取れない状態が続いた。

④昼休みの時間を守らない。


Twitter”や”Yahooニュース”でのコメントを見ると、
「免職になった大阪市職員はADHD等の発達障害ではないか?」
といった声がちらほら存在した。


はたして、免職になった大阪市職員は、ADHDなのだろうか?



ここで、ADHDについて良く知らない人のために、ADHDについて少し説明することにする。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)とは、発達障害のひとつである。

ADHDの人間には、次のような先天的な脳の機能不全がある。

・注意力や集中力を自分の意志で適切にコントロールする能力が低い。

・脳のワーキングメモリ(短期記憶)の容量が小さい。

 

このような脳の機能不全のために、普通の人と比べると、次のような特徴が、頻繁に現れてしまう。

・自分の関心が無いことに関しては、注意散漫で忘れっぽく、ミスが多かったり、別のことを考えて人の話が耳に入らなかったり、眠たくなったりする。

・自分の関心があることに関しては、高い集中力を発揮して、パフォーマンスが向上することがある(その間は周りが全く見えなくなってしまう)。

・ワーキングメモリの容量が小さいため、整理整頓が苦手。

・周囲の状況や相手の気持ちを汲み取るための注意力が乏しく、他人とのコミュニケーションが苦手である。

・自分の関心が無く苦手な仕事に、集中力を発揮することに対して、強い抵抗感・ストレスを感じるため、やるべき仕事を先延ばしされ、山積みになりがちである。その結果、期限がしばしば守れない。

・後々のことを計画的に考える能力が低い上に、嫌なことを先延ばしたいという気持ちが強いため、ともかく「その場がしのげればいい」という安易な考えから、嘘をついてしまう傾向がある。




上記のことを踏まえると、大阪市職員の「能力不足」な点と、ADHDの特徴は、とても良く似ているような気がする。



この大阪市職員がADHDだと仮定すれば、「能力不足」と言われている点について、全て説明がつく(下記の通り)。

・エクセルの入力ミス
 → 不注意によるケアレスミス

・書類作成の仕事に着手していなかった
 → 先延ばし癖

・意味の分からない言い訳
 → その場しのぎの嘘をつく傾向

・上司や同僚とのコミュニケーションとれない
 → コミュニケーションが苦手

・時間が守れない
 → 時間管理が苦手


僕は医者ではないし、大阪市とは縁もゆかりもないので、絶対にADHDだと言い切ることは絶対に不可能である。


しかし、彼らはADHDであることは、何となく間違いないという気がしている。

というのも、正直に言うと、僕自身がADHDであり、かつクソ公務員だからである。

なので、僕は、今回クビになった大阪市職員に対して、少なからぬ同情の念を抱いている。



Twitter”や”Yahooニュース”のコメントで、

「なぜこのような人材を採用したのか?」
「こんな低能力のやつが公務員試験に受かるわけない。」
「コネ採用に違いない。」

というのが結構あった。


ADHDの公務員として、僕の個人的な意見を述べたい。


ADHDの人間は器用にコネを使って採用を勝ち取れるほどの、高いコミュニケーション能力を持っている人間は少数派だと思う。

たまたま自分の親が大阪市職員だったというのはあり得るかも。


僕が思うに、ADHDの人間にとっては、コネ採用なんかより、普通に公務員試験を受けて採用される方がよっぽど簡単である。

ADHDでも、高学歴で、勉強だけは人並み以上にできるという人間はたくさん存在する。

公務員の筆記試験くらいなら、大学受験を乗り越えたADHDであれば、難なく突破できるはずである。


問題になるのは面接だ。

しかし、面接官が、多くの就活生の中から、面接を行うほんの一瞬の短い間に、ADHDの気配を感じ取り、不採用にするという芸当は難しい。

公務員試験の面接向けの対策本は本屋に行けば容易に手に入るので、民間と比べると対策がしやすい。

面接中の短い時間の間だけであれば、ADHDを何とかごまかすことも決して不可能ではない。


というかそもそも、ADHDを持っている当の本人ですら、自分がADHDであることに気づいていないという場合も多い。

「学生の間はちょっと変わった奴といわれるくらいで結構何とかなっていたが、社会人になってからどうしようもない壁にぶつかって初めて、自分がADHDであることに気づく」というパターンも多い。

本人が20年以上かかって気づけないようなADHDを、初対面の面接官が見抜くなんて、絶対に不可能だろう。



そんな感じで、ADHDの人間が公務員試験に受かってしまうということは、十分起こりうる。僕がそうだったように。



そのような「能力不足」の人間が、公務員になってしまうということは、とても不幸なことだ。

まず、市民にとって不幸なことだ。無能な人間のために税金を払わなければならないし、市民に対するサービスも低下するだろう。

次に、大阪市の他の職員にとっても不幸なことだ。
ADHDの部下がいたら、大変だろう。
特に、運悪く直属の上司になってしまったら本当に地獄だろう。

そして、「能力不足」である本人にとっても、非常に不幸なことだ。

公務員という職業は、ADHDにとって最悪だと思う。

起業家にはADHD気味の人間が多いと聞いたことがあるが、起業家の正反対とも言うべき”公務員”という職業は、ADHDの人間にとっては最も不向きな職業のうちのひとつである。

例えば、

・無駄に細かい事務作業が多い。
 → 不注意からのミスが多い。

・書類の量が多い。
 → 整理整頓が苦手で机が一瞬で山積みになる。

・市民、関係機関、関係部署、民間業者等との調整や協議が多い。
 → コミュニケーション能力が圧倒的に不足する。

・細かいスケジュール管理能力が必要とされる。
 → 時間管理ができず締め切りを破りまくる。

・数多くの法律、条例、基準等のルールを遵守しなければならない。
 → ADHDのほとんど唯一の長所である”個性”が殺される。

といったところが、ADHDにとって公務員という職業は圧倒的に不向きであると僕は感じる。

かといって、民間に向いているわけでは決してないから、自分がどんなに公務員に向いていないと自分で理解していても、「公務員を辞めて他に行き場所なんてどこにもない」と感じている不幸なADHDの公務員は全国的に一定数は存在するはずである。

不向きな職業だと分かっていながら、辞めるに辞められず、定年まで日々苦痛を感じ続けるのは、とても不幸なことではないだろうか。



だから、このような形で大阪市職員がクビになったことは、市民にとっても、市職員にとっても、本人にとっても、とても良いことだと思う。



ただ、僕が心配なのは、大阪市は、彼らに対して「1年以上かけて指導等を実施してきた」とのことだが、その一年の間に、「彼らは何らかの病気ではないか?」という疑いを持って、病院に行くのを勧めるくらいはしただろうかということだ。

まぁ仮に病院に行って、彼らがADHDであることが判明したとしても、大阪市の中でADHDが働ける環境を作り出すというのは容易なことではないだろう。

結局、障害者だろうが何だろうが、公務員として「能力不足」な人間をクビにすることは正しい。圧倒的に正しい。

が、ひょっとしたら、「能力不足」だった職員にぴったり合うような他の部署が大阪市の中に見つかって、適切なサポートを受けることによって、大阪市にとって有益な職員に化けるという可能性もゼロではない。



発達障害の人間の多くは、「自分の好きなことに関しては、過度な集中力を発揮し、とことんやる」という長所を持っている。

長所を生かせる環境さえあれば、その分野で一角の人間になれるかもしれない。

実際に、ADHDアスペルガー等の発達障害の傾向を持っている著名人は数多く存在している。

もちろん、自分の好きなことをどれだけ追求しても、それが全く世の中に役に立たないことだったり、好きなだけでは全然結果が伴わなかったりして、結局は不本意な選択肢を選ぶしかないという場合もあるだろう。

でも、せっかく普通の人間とは違う脳みそを持ってこの世に生まれてきたんだから、リスクを負ってでも好きなことをとことん突き詰めてやってみることが幸せなことではないだろうか。



最後に、アメリカの話だが、とても興味深い話がある。

ADHDの成人は高校や大学を中退して、教育プログラムが完了できなかったり転職や欠勤が多かったりするために、一人平均の年間合計で、ADHDでない者に比べると1万ドルの収入損失(年収が低い)と考えられる。アメリカでは成人人口の4.3%、800万人以上がADHDを有すると研究で見積もられている。従って、全米にすると770億ドルの損失につながると試算された。ADHDはアメリカにとって非常に損失の多い医学的状態の一つかもしれない」らしい。

2015年時点で、アメリカの人口は321.24百万人、日本の人口は127.73百万人である。

1$=120円、日本でも成人人口の4.3%がADHDであると仮定した場合、日本国内では、年間約3兆6千億円の損失が発生しているということになる。

どちらかというと、アメリカの方がADHDの人間が暮らしやすそうなイメージなので、日本での損失額は約3兆6千億円よりも多いかもしれない。



ADHDは少数異民族のような存在かもしれないけど、彼らがその長所を生かせるように周りの人間が適切にサポートするということは、日本という国家にとって非常に有益なことなのかもしれない。

友人T君の結婚式にて

先日、高校・大学時代の友人のT君の結婚式に行ってきた。
友達の多いT君らしく、なかなか盛大な結婚式だった。
まぁ全体的にはベタな展開で失笑を誘うという彼の一番得意な流れで、とても素晴らしい結婚式だった。


一番印象的だったのは、式を締めくくる、T君のお父さんのスピーチだった。

「結婚式のスピーチの本をたくさん読んで、原稿をたくさん書いて、練習もしたけど、原稿を読むのはやめた。本にはスピーチで自分の感想を言ってはいけないって書いてたけど、こんなにたくさんの人が息子を見守ってくれていたと思うと胸がいっぱいになった。今まで苦労もあったけど、T君を育ててきて本当に良かった。」

お父さんのスピーチに心を打たれながら、その一方で僕は別のことを考えていた。



僕とT君は違う人間であるというのは、高校1年生に出会った瞬間からわかっていたことだけど、その考えがようやく僕の腹の底に落ちたのは、このT君の親父のスピーチの時かもしれない。


どんなに頑張っても、僕はT君のようには決してなれない。
僕は僕なりの人生を選ばなきゃいけない。
心の底から思った。



僕の今までの人生を振り返ると、本に書いてあることを取ってつけたような原稿どおりの生き方だったように思う。

いつも自分の居場所がないと感じていた。
自分の意志で自分の生き方を決めたことなんて一度もなかった。
人の目を気にしてばかりだった。誰も僕のことなんて見ていなかっただろうに。
T君のような人達を見ると、いつもうらやましかった。
なぜ僕はT君のようにはなれないのかといつも思っていた。


高校生の僕に言ってやりたい。
「諦めるということは決して悪いことじゃないよ。物事を「明らかに見る」ということやで。あと、株をやってみろ。面白いぞ。」

最近は、株をやってるせいか、自分にあったやり方で生きるということに対して、以前より恐怖を感じなくなったように思う。たぶん。


ともかく、掛け値なしに素晴らしい結婚式だった。高校時代の他の友人にたくさん会えたのもとても良い刺激だった。
その反動で、結婚式の翌日、自分の置かれた現実に対する絶望感が半端なかったけど。