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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

ソクラテスが、"無知の知"に気づいたというだけで、自分が世界一賢いと確信するのはちょっと傲慢なんじゃないの説

哲学 倫理 歴史

僕はソクラテスがあまり好きではない。特に、無知の知とかいうのが気に入らない。

 

古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、

  • 「自分は何も知らないけれど、自分自身が無知であるという事だけは知っている」という点において、何も知らないのに知ったかぶりをしている自称賢者たちより少しだけ自分の方が賢い。

という考え方を持っていた。いわゆる無知の知と呼ばれる考え方である。

ソクラテスは、この無知の知という武器を最大限に生かして、当時の自称賢者たちを片っ端から論破していったという。

 

アドラー心理学が流行するきっかけとなった本、「嫌われる勇気」の中にも、ソクラテスの話がいくつか出てくる。なんでも、著者の岸見一郎氏が古代ギリシャ哲学に詳しいらしい。「嫌われる勇気」が対話形式になっているのもそのためらしい。

 

「嫌われる勇気」の中で、劣等感についての部分で、こんな事が書かれている。

  • 自分が不幸であること自慢をする人たちは、不幸である事によって「特別」であろうとし、不幸であるという一点において、人の上に立とうとします。

ここで、この文の”不幸”を”無知”に置き換えてみると…

  • 自分が無知であること自慢をする人たちは、無知である事によって「特別」であろうとし、無知であるという一点において、人の上に立とうとします。

となるんだけど、これはかなり僕のソクラテスのイメージに近い。無知の知というより、無知の自慢という感じがする。諸葛孔明みたいな、三回もお願いされないと自分から世に出ません的な謙虚さが、微塵も感じられない気がする。諸葛孔明三顧の礼の対極にあるのが、ソクラテスの問答法って気がする。

 

ここまでソクラテスを悪く言ってきたけど、好きなところもあって、「大切なのは単に生きる事よりも善く生きる事だ」みたいな事を言ってるけど、彼は本当にそういう生き方を実践したという気がする。そういう意味で、ソクラテスは凄い人だと思う。

また、ソクラテスは、批判ばっかりするのに自分の意見は何もないムカツク奴だけど、自分が無知である、と認めている点では、かなり謙虚な人だとも言える。

一方、世の中には、批判ばっかりするのに自分の意見は何もないムカツク奴、であると同時に、自分が無知である事にすら気づいていないどうしようもない奴だって、世の中にはいっぱいいる気がする。やっぱりソクラテスは凄いのかも知れない。彼自身が著書を残していないから何とも言えないってところはあるけど。

ブッダより ふつーに ブラックジャックが好き ~釈迦の八正道も風に吹かれている説~

哲学 宗教 プライベート 時事ネタ

僕とブッダの出会いは運命的だった。

 

当時、僕は、人一倍悩みの多い中学生だった。悩みのひとつに、昼休みに図書室以外に居場所がない、というのがあった(おかげで、手塚治虫ブラックジャックに出会えたと言えなくもない)。

 

ある時、めちゃくちゃ左翼気味な社会の先生のクラスで、ビンゴ大会が開催された(開催の経緯は忘れてしまった)。その、ビンゴ大会の一等の景品が、手塚治虫ブッダ全巻セットだったのである。

僕は、「ブッダが欲しい!」と心から願った。あの手塚治虫が、あの仏教の開祖ブッダについて書いた漫画なら、単に「漫画として面白い」以上の、何か、人生の意味みたいな、めちゃくちゃ重要な真理が書かれているに違いない、ブッダを読めば僕は救われるに違いない、と思ったのだ。

 

なんと、僕の願いは叶った。まるで神憑りのように、僕のビンゴガードの穴はみるみる一直線に空いていき、すんなり僕は一等のブッダ全巻セットを手に入れたのだった。ビンゴの一等が当たるなんて珍しい事なのに、中二病を患っていた僕は、特に驚くという訳でもなく、むしろ当然の事じゃないかと信じ込んだ。そして、僕は夢中でブッダを読んだ。

 

ブッダは、まぁ普通に面白かった。が、単に「漫画として面白い」以上の、何か、人生の意味みたいな、めちゃくちゃ重要な真理、というものは全く感じられなかった(幽閉されたビンビサーラ王を死なせたくない王妃が、自分の身体中に蜂蜜を塗りたくって裸でビンビサーラ王を訪ね、裸体をペロペロされるというシーンがエロかった、という結構どうでも良い記憶だけが残っている)。ブッダは僕を救う事ができなかったという事実は、僕をかなり落胆させた。まぁハードルが高すぎただけかもしれないけど。

 

 最近、本やネットで、哲学や宗教の浅い知識を増やすのがマイブームなんだけど、そのブームの中で、仏教の開祖であるブッダ(釈迦)にも、当然、触れる機会があった。僕は改めて、ブッダの教えというのはどういうものなのか、という事について考えてみた。

 

 ブッダの教えの核心は、「縁起」であると言われている。縁起については、僕は納得できた気がする。確か、「僕という存在は、僕という確かな実体があるという訳ではない。僕という存在は、僕以外のものとの関わり(縁)の中でたまたま起こる現象のような、相対的な存在である」みたいな考え方だった気がする。デカルトの「我思うゆえに我あり」では、「僕という絶対的な存在がある」という考え方が根っこにあるけど、ブッダの縁起の考え方では、僕という存在はあくまで相対的であやふやな存在でしかない。 

「縁起」は納得できるのだけど、僕が一番納得できないのは、「八正道」とかいうものである。「八正道」というのは、煩悩をなくすためにするべき正しい八つの事、みたいな意味だったと思う。しかし、「縁起」の考え方を応用すると、絶対的な「正しさ」というのは存在せず、あくまで相対的であやふやな正しさしか存在しない、と言えるのではないかと思う。という事は、「八正道」ってのも、かなりあやふやで怪しくなってしまう。やっぱり、ブッダの主張する正しさだって、絶対的なものではないという気がする。

 にしても、2500年前のインドで、「縁起」にたどり着いたのは普通に凄いし、さすがお釈迦様という気がする。

 

ところで、西洋哲学では、なかなかブッダ的な考えにはお目にかかれないけど、僕の妄想だけど、そういう西洋と東洋の考え方の違いは、季節風(モンスーン)が吹く地方か吹かない地方かの違い、という気がした。季節風がもたらす恵みや災害が目まぐるしく発生するという環境の中で生活していたからこそ、僕という存在も風に吹かれて流れ去るだけの儚い存在なんだみたいな考え方を受け入れる事が比較的簡単だったのかも(古代ギリシャの哲学者で万物は流転するって言ってた人もいた気がするけど)

 そういえば、ノーベル賞をとったボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin' in The Wind)」の歌詞で、「ただ答えは風に吹かれている」というのがあるけど、それも東洋的なあやふやな歌だったのかもしれない…って一瞬思ったけど、やっぱり、「風の中にある答えを、知ったかぶりすんなよ」という確かな主張が込められていると捉えると、ソクラテスの「無知の知」と似てるって気もするし、やっぱり、西洋的なしっかりとした意見のある歌という方が妥当かも。

不倫とか未成年飲酒って、本当に「未然に防げたこと」なの?

倫理 受動意識仮説 哲学 時事ネタ 社会

不倫騒動で活動休止していたベッキーが、10月9日のワイドナショーという番組にて、5ヶ月ぶりにテレビ復帰したらしい。その番組内で、ゲス川谷の未成年飲酒騒動に対して、「未然に防げたことなんじゃないかな」と言ったらしい。

 

まず、僕が思ったのは、「自分だって不倫を未然に防げなかったのに、よくそんなブーメランみたいな事言えるなぁ」という事。ネットのコメントを見ても、そういう感想が多かった。

 

しかし、ここで、よくよく考えてみると、意外と、僕だってベッキーやゲス川谷を責める事は出来ないのではないか?という気がしたのだ。

 

僕は不倫をした事がないので、不倫をする人の気持ちはよく分からない。そりゃそうだ。不倫する人と僕は、違う人間である。たぶん、生まれ持った素質とか、生まれ育った環境とか、性癖とか、性欲の強さとかが違うのだろう。

そして、僕が僕として生まれた事はたまたまであり、不倫する人がその人として生まれた事はたまたまである。僕だって、たまたま不倫する人に生まれていたかもしれない。

 

同じような事例で、例えば、麻薬で捕まった有名人の息子のニュースを見て、「あり得ない!」と一瞬思うけど、彼は、裕福な有名人の息子という、麻薬業者からかなり狙われやすい境遇にたまたま生まれてきてしまっているのだ。僕だって、彼の立場であれば、同じことをしたかもしれない。

 

つまり、僕が僕として生まれたのも、川谷絵音が川谷健太として生まれたのも、ベッキーレイボーン・英里・レベッカとして生まれたのも、全ては偶然の出来事であり、自分がどういう人間として生まれ育つかは、完全にランダムな出来事でしかない、というのが僕の考え方の概要である。

 

というのも、僕は、「自分の意識によって、自分の行動を変える事はできない」というわわりと無責任な思想を、けっこう真剣に信じているから、そんな事を考えるのかもしれない。

これは、ちょっと前に流行った「アドラー心理学」とは真逆の思想である。「アドラー心理学」という思想においては、「人生とは、自分の意志で選択していくものである。」という考え方をする。これは、第二次世界大戦後に世界中から注目されたサルトル(フランスの哲学者)の実存主義という考え方に似ていると思うけど、アドラーサルトルを先取りしていたと言える(個人的にはサルトルの方が好きだけど)。しかし、二人とも正しくないという気がする。西洋的な、自己中心的な考え方に偏り過ぎている。

 

僕が思うに、「人生とは、無意識下で決定された行動の結果、自動的に選択されていくものである。」というのが正しいって気がする。「自分の意志で人生を選択している」というのは、ただの幻想であり、人間は、何一つ、自分で決められない自動ロボットと言っても過言ではない気がする。これは、わりと東洋的な考えだと思う。

 

こんな風に考えるのは、僕が比較的モラルの低い人間だからなのかもしれない。そもそも、未成年飲酒なんて、大学の新入生が飲みまくってる現実的を考えると、法律を変えるしかないと思うし、不倫だって、成り行きでそうなってしまったら本人たちにはどうしようもないんじゃないかという気もする。

 

 

以上より、こういう些細な不祥事に文句を言いたいと思う人は、文句を言う前に、「自分が自分である事も、彼らが彼らである事も、全くの偶然の出来事であり、自分と彼らの間に優劣など全く存在しない」という考え方を、ちょっとくらい知っててもいいんじゃないかなぁって気がする。

電通の新入社員だった高橋まつりさんの自殺は、「過労自殺」というより、会社の古い体質に対する体を張った「抗議自殺」だった説 

倫理 時事ネタ 社会

電通の新入社員だった高橋まつりさんが、24歳の若さで自殺したのは「過労自殺」だと認定された、というニュースを見た。そんなに若いのに過労自殺をするなんて一体どういう女性なんだろうと思って、彼女のツイッターを拝見してみる事にした。

 

彼女のツイッターを見る限り、彼女は交遊関係も少なくなさそうだったし、少ないプライベートの時間はわりと活動的に過ごしているみたいだったし、自虐的なツイートの中にも時々ユーモアが入ってて、読んでて面白いところもあった。賢い人だなぁと思った。とても、自殺するような人間には思えなかった。上手に世を渡っていける能力を持っている女性のように見えた。こんな人が、仕事が辛いというだけで、自殺をするなんて、何だか納得がいかないという気がした。

 

「残業時間が100時間を越えたくらいで過労死するのは情けない」と言った長谷川秀夫氏が、異常に叩かれてたけど、僕も、正直、彼女のような人が、仕事が辛いという理由だけで過労死するなんて情けないと言われても仕方ないと思った。たぶん、仕事が辛いという理由だけではなく、別の理由があったと考えるのが自然じゃないかという気がしたんだけど、例えば、「会社の古い体質に対して体を張った抗議するために自殺した」というのも十分考えられると思った。

 

賢い彼女のことだから、もし自分が自殺したらどうなるか、という事について考えなかったはずがない。もし自分が自殺すれば、客観的に見て、どう考えても会社側が一方的に悪いのは明らかだし、ツイッターにも証拠が残っているし、間違いなく、過労による自殺であると認められるという確信を持っていただろう。もしかしたら、自分は悲劇のヒロインとしてまつり上げられるだろう、という打算的な事も考えたかもしれない(というか僕なら絶対に考える)。

その上で、

  • とにかく生き延びる事
  • 自殺する事

を天秤にかけた結果、生き延びる事より、自殺した方が良いと決断したんじゃないだろうか。

 

そういえば、イエス・キリストが死んだのは、当時のユダヤ教の古い体質に抗議したせいだった気がするけど、彼も自分が死ぬと分かっていながら逃げなかったので、彼も「組織の古い体質に対する抗議のために自殺した人物」と言って良いと思う。彼女とちょっと似ているかも。死んだ後に悲劇の人物としてまつり上げられるのも似ているかも。イエスはツイッターしてなかったから彼自身の残した記録はないけど。イエスの誕生日を自分の命日に選んだのもそういう事だったりして(彼女が死んだのは昨年末のクリスマス)。

 

自殺は絶対にいけないという人もいるかもしれないけど、僕は個人的に、自分が納得できるなら、そういう死に方を選んでも良いと思う。人間はいつか必ず死ぬことに変わりないし、自分が死ぬ事で何かが変わるなら、それも良いかなと思う。というか、ちょっと羨ましいとすら感じる。彼女の場合、誰が見たって彼女は悪くないし誰もが同情するけど、僕なんか、市役所でのぬるい仕事すら苦痛に感じてサボりまくって自分で自分の首を絞めて仕事が回らなくなり罪悪感に苛まれたあげく心優しい上司の怨みを買いながらバックレた後株で1000万スると同時に離婚の危機が訪れたりしたんだけど、そんなの誰が見たって僕自身の責任だし、誰かに訴えたところで誰も同情しないのは当たり前だし、本当に自分でもよく自殺せず元気に生きてるなぁと感心するくらいなので、僕は彼女みたいに堂々と大義名分ある自殺ができる人がとても羨ましい。でもやっぱり、いくら大義名分があったとしても、親より先に自分が死んだら親が悲しむだろうとか、死んだら自分の意識が消え去ってしまうから怖いとか、そういう事は少しも考えなかったのかなぁ。

 

残念なのは、彼女の「過労自殺」が認められても、たぶん、電通は変わらないという事。電通の業績が悪化して潰れそうになったら変わろうとするかもしれないけど、新入社員のひとりが勝手に自殺したくらいでは、何も変わらない気がする。まぁ、ブラック企業という風評被害により優秀な新入社員が集められなくなって穏やかに没落していくのかもしれんけど。

メアリーの部屋について本気出して考えてみた ~クオリアは後天的に習得するものである説~

哲学 科学

僕は、唯物論や物理主義を信じている。しかし、僕とは違って、神や仏や霊魂の存在を信じている人もいる。

 

"メアリーの部屋"という思考実験がある(マリーの部屋と呼ばれることもあるらしい)。この思考実験は、「この世界にある、ありとあらゆる物事は全て物理的なものである」という物理主義を批判するために考案されたものである。

 

ネットで調べたら分かるけど、一応、メアリーの部屋について説明しておく。

メアリーは白黒の部屋で生まれ育った女性である。メアリーはこの白黒の部屋から一歩も出たことがなく、メアリーは生まれてこのかた色というものを見たことがない。しかし、メアリーは白黒のテレビや白黒の本を通じて、世の中には色というものが存在する事を知っているし、色についての物理的な知識も、全て知っている。

このメアリーが、白黒の部屋から外に出たとき、メアリーは何か新しい事を学ぶだろうか?

 もし、メアリーが、何か新しいものを学ぶとすれば、メアリーは物理的な知識以外の知識を学んだ事になる。ということは、「この世界にある、ありとあらゆる物事は全て物理的なものである」という物理主義は、間違いである。…という結論が導き出される。

 

ってのがメアリーの部屋の概要である。

 

言い換えると、

赤色のリンゴを見たときの、「ああ、赤い!」という、ありありと赤い色を感じる時の質感のことを、赤のクオリアというけれど、はたして、この赤のクオリアは、物理的な現象なのか?それとも、物理的でない超常現象なのか?

 ということである。

 

僕は、この、赤いクオリアは、進化の過程において、ごく自然と獲得された、極めて物理的な現象だと思う。

 

ここで、猿がクオリアを獲得する過程について考えてみようと思う。

 

この間、"地球大進化"というNHKの番組を見たんだけど(めちゃくちゃ面白かった)、その番組のなかで、原始的な猿が、高い視力を得ていく過程についての話があった。

恐竜が絶滅した後も、地上には危険な天敵がたくさんいたので(このうち、ディアトリマという恐ろしい巨鳥は、FFのチョコボのモデルになっているらしい)、ご先祖様たちは、危険な天敵のいる地上には降りることなく、エサとなる果実を提供してくれる広葉樹林の上で、樹から樹へと飛び移りながら暮らしていた。

その暮らしの中で、ご先祖様たちは、樹の上での生活に適応するために、枝と枝との空間の距離を立体的に捉えたり、果実を効率よく探すために、高い視力を持つようになった(他にも、樹の枝や果物を掴めるような手の形になったり、高い視力を利用してお互いの表情を認識する事ができるようになったため、豊かな表情が生まれ、複雑なコミュニケーションがとれるようになったりした)。

 

たぶん、ご先祖様たちは、このように視力を進化させる過程の中で、色のクオリアを獲得していったと考えられる。食べられる果物の色を瞬時に判断するために、色のクオリアがあった方が、どう考えても便利だからである。たぶん、 色のクオリアを持たない猿は、どんどん自然淘汰されていっただろう。

 

ところで、赤のクオリアを持たない猿は、はたして、赤い果実を見つける事ができるだろうか。

例えば、黄色い果実しか見た事がない猿がいたとする。彼は、黄色いものを見るだけでよだれが出てしまうくらい、その黄色い果実が大好物である。

しかし、彼の住んでいる地域には黄色い果実しか存在しないので、彼は赤い果実を生まれてこのかた見たことがない。

ここで、かなり心が痛むけど、彼を、赤い果実しか存在しない遠い地域に強制的に引っ越しさせたとすれば、一体どのような事が起きるだろうか。

引っ越し後、しばらくして、お腹が空いてくると、まず、黄色い果実を探すだろう。めちゃくちゃ必死で探すだろう。この時、赤い果実が視界に入ったとしても、黄色い果実を探すのに夢中で、なかなか赤い果実には注意が向かないのではないだろうか。

しかし、やがて、今まで見たことのない色の果実があることに気がつくはずだ。当然、彼は、それが食べられる果実かどうかは知らない。しかし、樹の枝についている目立つ色のものという点で、黄色い果実とよく似ている。変な臭いがするわけでもない。何より、このまま何も食べなければ死んでしまう。ということで、彼は勇気を出して、その赤い果実を食べるだろう。その初めて食べた赤い果実が「おいしい!」と感じたなら、もっとその赤い果実を食べたいと思うはずだ。

そして、彼は、初めての赤い果実を食べ終わったあと、顔をあげて、辺りを見回した。

何ということでしょう!」と彼は驚いた。さっき、黄色い果実を必死で探していた時とは、全く違う光景が目の前に広がっていた。たくさんの赤色が、彼の目に飛び込んできたのだ。彼は、赤い果実が食べられると言うことを学んだ事で、「ああ、赤い!」という、ありありとしたその果実の赤い色を感じる能力を後天的に習得することができたのである。つまり、彼は、赤のクオリアを手に入れたのである!

以後、彼は赤のクオリアを利用して、赤い果実を探すという行為を何度も何度も繰り返し練習することにより、赤い果実を見つけるのがとても上手になり、エサを食うのに困らなくなりましたとさ。めでたしめでたし。

 

要するに、クオリアは、後天的に学ぶ技術のようなものだと考えられる。後天的に学ぶ技術は、物理的な知識、というよりも、物理的な経験、とでも言うべきなのかもしれない。

とにかく、メアリーが色のクオリアを実感したという現象は、物理的な経験としての色の情報が脳のメモリーに足されるだけの現象であり、何か霊的なものが増えるというような超常現象ではない。

 

また、クオリアは、後天的に学ぶ技術だから、赤い果実を上手に見つけるために赤のクオリアを学ぶ事と、自転車の乗り方を練習して学ぶ事は、後天的に技術を学ぶという点で同じである。

もしメアリーが、テレビと本だけで自転車の乗り方について徹底的に勉強した後、実際に初めて自転車に乗った時、何か新しい事を学ぶだろうか?

もちろん、メアリーは何回も転んだ後、大いに新しい事を学ぶだろうけど、自転車の乗り方を練習するという事は、「自転車を乗るときの体の動かし方という物理的な情報」を脳みそに蓄積していくだけの作業と言える。だから、極めて物理的な現象だと言える。

自転車に乗る感覚も、色のクオリアの感覚も、物理的な範囲の中で起きている普通の現象である。

「女性=知恵の象徴」説 ~菩薩もソフィーも女性的な件について~

宗教 哲学

菩薩」という言葉は、「成仏を求める修行者」という意味である。「成仏」という言葉は、「悟りを得ること」という意味で、「悟り」という言葉には「知恵」という意味もある。

つまり、「菩薩」とは「知恵を求める者」であると言える。

 

「哲学(フィロソフィー)」という言葉は、フィロ=愛する、ソフィー知恵、が語源で、「知恵を愛すること」という意味であったという。

つまり、「哲学者」とは「知恵を愛する者」であると言える。

 

以上より、「菩薩」と「哲学者」の意味は、かなり似ていると言える。

 

しかも、さらに似ている部分がある。

フィロソフィー(哲学)の、"ソフィー"は、欧米では女性名詞である。女性の名前としてよく使われる。(ところで、この間、ソフィーの世界という哲学の入門書を読んだけど、普通に面白かったし勉強にもなった。ちなみにソフィーの世界の主人公ソフィーは14歳の女の子である。)

菩薩の仏像は、女性的な外見をしている。女性は光り物が好きと言うけれど、菩薩も派手なアクセサリーをしている事が多い。観音菩薩は、自在に姿を変える事ができるらしいけど、これも、女性の心が多面的という意味で女性的な気がする。地蔵菩薩は、冥界の王である閻魔の仮の姿であるらしいけど、これも、女性には怖い一面があるということなのかも。

 

そういえば、アラビアンナイトの話でも、賢くて行動的な女性が数多く登場すると聞いたことがある。

どうやら、知恵という言葉には、西洋でも東洋でも、女性的なイメージが含まれているようだ。 

 

僕は、男性よりも女性の方が賢いとは思わない(もちろんその逆も)。でも、こんなに世界中で、知恵という言葉に女性的なイメージが含まれているのはどうしてだろうか?というと、僕が思うに、たぶん、男性から見た女性が賢い存在であるからじゃないかという気がした。口喧嘩とか圧倒的に女性が強いし。男性は、腕力で女性に勝てるけど、知恵で女性に勝てないってイメージだろうか。

 

ともかく、菩薩もソフィーも女性的なのは興味深いことだと思う。人間の歴史はほとんど男尊女卑の世の中だったけど、その男尊女卑の中でも、男性が女性に対して畏れ多い気持ちを抱いていたからこそ、知恵という言葉に女性的なイメージが担わされてきたんじゃないかなぁ。

男女同権について本気出して考えてみた ~弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか~

社会 文学 倫理

太宰治の男女同権という本を青空文庫で読んだ。

「男女同権」とは、男の地位が女の地位まで上がったということです。

 という一文から分かるように、彼のいう「男女同権」という言葉の意味は、普通とちょっと違う。要は、彼の言いたかったのは、「女性という弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」というような事かなぁと思う。そういう視点のもと、「おれは今まで女達からこんなにひどい仕打ちを受けまくってきたんだよ!」という事を最初から最後まで、延々とグチグチグチグチ語り続けるだけの話だった。自虐的なギャグ小説と思って読むとまぁまぁ面白かった(太宰治を楽しく読むコツは、共感できるところは普通に共感して、共感できないところはギャグと捉えて笑ってあげるという姿勢で読むと良い)。モテる男も大変だなぁと思った。

 

この話は1948年に書かれたらしいけど、68年後の今の時代でも、女性の権利については改善されたと思うけど(完全に改善されたというわけではないかも)、「弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」と言いたくなる場面は、かなり頻繁にあるのではないかと思う。

 

例えば、戦前の日本の行いに対して未だに文句を言っている中国や韓国なんかにも、「弱者の立場を利用して暴力を振るうのはいかがなものか」と言っても良いと思う。中国や韓国の反日を見ていると、弱者である事は、デメリットばかりではないという事が分かる。

 

「弱者のメリット」の良い例として、「一夫多妻制」がある。一夫多妻制ではオスの方が死にやすい、という話を聞いたことがある。

一夫多妻というと、女は政略結婚ばかりさせられて、自分の意思で男を選べないし、男の権力に比べて女は何の権力もなく、男の言うがままになるしかない、というようなデメリットは確かにある。

しかし、野生のライオンとかを見れば分かるけど、確かに、一握りの強いオスは、多くのメスを従えて、一日中寝っ転がったりセックスしたりするだけの良い身分であるに違いないけど、一握りの強いオス以外は、群れからはぐれてたった一匹で生活しなくてはいけない、という厳しい危機的な状況に陥る。たぶん、こうした一夫多妻制の社会では、オスよりメスの方が、自分でオスを選べないというデメリットはあるけど、よっぽど不細工なメスでもない限り、生き残ること自体は比較的簡単である。

まぁライオンの例えはかなり極端ではあるけど、ライオンと同じ哺乳類の動物である人間の社会にも、似た部分はあると思う。

 

しかし、現代の人間の世界では、男女同権ということで、強者も弱者もないという世の中になり、男女間においては、弱者として弱者の戦法を使うことは、少しやりにくくなったのかもしれない。

しかし、中国や韓国の反日の例で挙げたように、現代においても、そういう戦法はわりと利用されている。

 

例えば、ネット炎上なんかも、弱者側のネットの住人達が、強者側(テレビに出ている有名人とか)の些細な不祥事をクソミソに叩きまくるのも、弱者の心理から起こっている事だと思う。

最近では、弱者の戦法を、弱者の戦法で破るみたいな、いわば弱さの競争みたいな、変な図式になったりもしている気がする。ちょっと前に、NHKで紹介された貧困女子学生が影で贅沢していたという事で炎上したのが話題になってたけど、それも、貧困女子学生の使う弱者の戦法を、ネットの不特定多数の弱者が叩くという、弱さの競争の図式になっていたと言える気もする。

 

太宰治が男女同権を書いてから68年の年月が過ぎても、弱者の立場を利用して暴力を振るう人はあとをたたない。

 

でも、そもそも、キリスト教の教えにだって、弱者優遇の思想が組み込まれている(金持ちは地獄に落ちるけど貧乏人は天国に行ける、的な思想がある)くらいなので、もう、この弱者の論理は、人間が普遍的に持っている本性ではないかという気がする。ニーチェがいうところのルサンチマン("妬み"みたいな意味の言葉)を、誰でも持っている。

 

僕は、ニーチェもちょっと好きなんだけど、ニーチェも、「ルサンチマンを克服しよう」と言っていたけど、それも弱者の論理を使うのは良くないという事が言いたかったんじゃないかと思う(ニーチェ自身がルサンチマンを完全に克服していたとは思えないけど)。しかし、残念ながら、人類は、永遠にルサンチマンを克服出来ないような気がする。

だから、太宰治ニーチェも女性も中国も韓国も貧困女子学生もネット民も僕も、みんな弱者の戦法を思う存分使っている気がするけど、もうそれはそれで仕方がないと割り切るしかない。

 

個人的には、弱者の戦法を使うのはちょっと格好が悪いと思っている。例えば、僕は別に巨人ファンではないけれど、アンチ巨人の人はすごく格好が悪いと思っている。

僕は、弱者の戦法を、めちゃめちゃ使いたいといつも思っている。使いたいけど、無駄にちっちゃなプライドを持っているおかげで、それを使うのを必死で我慢している。そして、必死で我慢しているからこそ、何のプライドも持たず自分が弱者であることをおおっぴらに認めてグチグチ言っている人間に対して、「なんて格好悪い人間なんだろう」「あんな人間には絶対になるもんか」「ギャグとして見れば面白いかも」と、僕は思ってしまう。太宰治の何の話か忘れたけど、悪徳は悪徳を発見する、という言葉があるけど、僕が弱者の戦法を使っている人をすぐ見つけられるのは、僕自身がそういう人間だからに他ならないという気もする。

受動意識仮説のおかげで長年の謎がすっきりした!!

哲学 科学 受動意識仮説 哲学的ゾンビ

最近、youtubeで無駄知識を増やすのがマイブームなんだけど、その一環で、昨日、何となく面白そうだと思って見てみたのが、慶応大学の前野隆司氏の受動意識仮説についての講義の動画だった。めちゃくちゃ面白かった。僕が子供の頃から不思議に思っていた哲学的な問題が、やっと解決した。ネットでこんな講義を無料で見られる時代に生まれて良かったなぁと思った。

 

 まず、個人的に昔から疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について述べる。

僕は、子供の頃から朝起きるのが苦手で、いつも遅刻するかしないかのギリギリまで蒲団から脱出できなかった。特に、寒い冬の朝なんかは、起きるのが苦痛だった。暖かい毛布にくるまりながら、「もう一生この暖かい蒲団から起き上がりたくない」という気分になるのが日常茶飯事だったんだけど、意外と、一生起き上がる事が出来なくなってしまった、なんて事態は一度も起こらなかった。

どんなに「蒲団の外に出たくない!」と心から強く念じていても、ある瞬間、ふと、やる気が湧いてきて、何とか暖かい毛布から這い出して、服を着替え、朝ごはんを食べて、ドアを飛び出して、学校や会社に向かっている途中で、ふと憂鬱な気分になり、「あれ?おれはいつの間に電車に乗っているのだろう?あんなに起き上りたくなかったのに、なんで起き上がる事ができたんだろう?」なんて思ったりした事が、何度も何度もあった。

この、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について、僕は深く考えた。この問題はたぶん、「人間は自動ロボットのようなものである」と考えれば上手く説明できるのではないか、という結論に僕は辿り着いた。例えば、ボーリング玉に衝突されたピンが、運動法則に従って飛び跳ねるみたいに、人間という自動ロボットも、まぁボーリングよりは複雑な法則に従うにしても、ある衝撃が何らかの物理法則に従って脳みそに伝わって複雑に処理された結果、自動的に、適当な動機を生み出す事により、暖かい蒲団から僕を脱出させているのではないか、と考えたのである。

17世紀の西洋の哲学者のスピノザという人は、僕と似たような考え方の持ち主で、人間を「投げられた小石」に例えたらしい。スピノザによると、人間は、投げられた小石みたいに自分の意志とは関係なく投げ飛ばされただけなのに、自らの力で飛んでいると勘違いしているに過ぎない、というのである。僕のイメージにぴったり当てはまる考え方だと思った。

 

こうして、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」は、スピノザの「投げられた小石」説にお墨付きをもらって、僕の中では完全に解決されたのように見えた。

 

しかし、そうすると、また別の問題が僕の中に浮かび上がってきた。

本当に僕は、「投げられた小石」が運動法則に従って飛んでいるだけの存在なのだろうか。例えば、ジャンケンで、僕がグー・チョキ・パーのどれかを選んで出すという行為についても、僕がどの手を出すのかは、事前に無意識下で決められているとでも言うのだろうか。まるで運命みたいに、ジャンケンの勝ち負けがあらかじめ決まっているみたいな事があり得るのだろうか。僕は今まで、ジャンケンの時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!チョキを出そう!」と考えてから、チョキを出していたはずなのに。

もし「投げられた小石」説が正しいならば、ジャンケンの手は、「僕はチョキを出そう」と決断する前に、無意識下で既にチョキを出す事は決定されているという考え方が正しい事になる。でも、常識的に考えて、本当にそんな事ってあるだろうか?やっぱり「投げられた小石」説は間違っているのだろうか?

例えば、「チョキを出すぞ!」と一回決断した後、手を前に出す直前、「いや、やっぱりグーだ!!」と思ってグーを出した場合はどうだろうか。とっさに出したグーですら、やっぱり、自動ロボットのように、投げられた小石のように、咄嗟にグーを出す事が運命だったみたいに、自分の意思とは関係なく決まっていたのだろうか。僕のモヤモヤは消えなかった。

 

それが、つい昨日、前野氏の講義おかげで、きれいに解決した。

 

なんと、僕がジャンケンで感じていた疑問と、ほとんど同じような疑問を、なんと今から33年前に、きっちりと実験によって解決してくれていた人がいたのだ。

その実験とは、 カリフォルニア大学のベンジャミン・リベットという人によって行われた、「”指を動かそう”と意図する実験」である。

この実験では、

  1. 指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられる瞬間
  2. ”指を動かそう”と意図する瞬間
  3. (最終的に指の筋肉が動く瞬間)

のうち、①と②はどちらの瞬間の方が早いか?というのを調べたらしい。日常的な感覚で普通に考えると、②”指を動かそう”と意図した後に、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられて、③最終的に指の筋肉が動く、という順番が正しいはずである。

つまり、②⇒①⇒③という順番が正しいと思われる。指を動かす時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!指を動かそう!」と考えてから、脳の指令が発せられて、その指令が指に到着して、指が動き出す、というのが自然な考え方である。

しかし、実験の結果は違った。

なんと、②”指を動かそう”と意図するよりも、0.35秒前の段階で、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられていた、という驚くべき実験結果が出たのである。

つまり、①⇒②⇒③という順番が正しかったのである(ちなみに②⇒③は0.2秒差だったらしい)。

 

なぜこんな実験結果が出るかを説明するための理屈が、「受動意識仮説」だというのである。

 

受動意識仮説とは、「人間の意識は、無意識下の自律分散的情報処理結果に受動的に注意を向け、あたかも自らが行ったかのように幻想体験し、エピソード記憶するための(無意識に対して受動的な)存在である。」という仮説である。

 

人間の意識は、人間の行動を決定する存在ではない。ただ単に、無意識下で作られたエピソード記憶を体験するだけの存在なのだ。だから、実は、意識する前の時点で、自分の行動は全て無意識下で決定済みという事になる。無意識下で自動的に情報処理がなされた後、指を動かすという指令が脳から筋肉に向けて発信されて、その指令が発信された0.35秒後にやっと、「指を動かそう!」という意思を受動的に感じる事ができるのである。

 

「指を動かす実験」の他にも、受動意識仮説を裏付ける実験結果はどんどん出て来ているらしくて、僕の見た前野氏の講義の中だけでも、いくつかの興味深い実験が紹介されていた(特に、分離脳患者の実験が面白かった)。

 

この受動意識仮説は、今まで僕が聞いた中で、一番しっくりきた。

今まで疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」も「ジャンケン問題」も、全てこれで説明ができるし、本当にすっきりした。意識のあるロボットは、物理的な問題さえクリアできれば普通に作れるようになる日が来るかもしれないと思った。

 

まとめ

  • 人間は、エピソード記憶を作るために、意識を体験している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るための機能として存在している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るために、無意識下において自動的に行われた無数の情報処理の結果を、あたかも意識自身が自分の意図で情報処理したかのように幻想体験するだけの脇役みたいな存在である。
  • 意識という存在は、何らかの行動を起こすために存在するのではない。「指を動かす実験」の通り、無意識下で指を動かすという決定が下された後でなければ、「よし!指を動かすぞ!」という意思を持つ事すら出来ない。

 

 

ところで、哲学的ゾンビについて、受動意識仮説を当てはめて考えると、哲学的ゾンビは存在しないという結論に思い至った。

哲学的ゾンビは、「普通の人間と全く同じだけど、意識を全く持っていない人間」と定義されるけれど、”意識を持っていない哲学的ゾンビ”は、”意識を持っている人間”と比べて、エピソード記憶を作る能力にどうしても差がついてしまうのではないだろうか、という気がする。

受動意識仮説によると、「意識」=「エピソード記憶を作るための機能」という事が言えるけど、哲学的ゾンビは意識を持っていないので、エピソード記憶を作るための機能」も持っていない哲学的ゾンビエピソード記憶を作るための機能」を持っていないという事は、人間と同じようなエピソード記憶を作る能力を持っていない。

果たして、エピソード記憶を作る能力を持っていない哲学的ゾンビは、人間と同じように振舞う事が出来るだろうかというと、たぶん無理だろう。人間と同じように振舞えない哲学的ゾンビは、「意識を持たないということ以外は全て普通の人間と同じ」という哲学的ゾンビの定義に反する事になるため、哲学的ゾンビは存在しない、という結論が導き出せるのではないだろうか。

正直、僕は哲学的ゾンビの話が好きなので、「哲学的ゾンビが絶対に存在しない」だなんて、あまり言いたくないけど、受動意識仮説を当てはめると、そういう結論が出てしまった。誰か間違いを指摘してくれないかなぁ。

哲学的ゾンビについては、また気が向いたら書くかもしれない。

 

ところで、前田氏の受動意識仮説については全面的に納得したけど、前田氏の最新の本が、「人生が変わる!無意識の整え方 身の心もなぜかうまく動き出す30の習慣」というタイトルなんだけど、「意識的に無意識を整えるのって、無理なんじゃないの?」「受動意識仮説と矛盾しないの?」「そんな簡単に人生が変わる!なんて言っちゃって良いんですかねぇ?」という疑問が湧いてしまった。なんだか、浄土真宗でいう「他力本願」という言葉の「他力」というのは、一体、どこからどこまでが「他力」で、どこからどこまでが「自力」なの?みたいな疑問と似ているかもしれない。というような事を、本を全く読んでもいないにも関わらず、妄想してしまった。他力本願と受動意識仮説は良い意味でも悪い意味でも似ている気がしてきた。これらの考え方を理解する事で、心が救われるような人も、堕落する人もいるだろうし、そもそも理解できない人もいるだろうなぁ。僕は、阿弥陀仏なんか全く信じていないのに、「自力によるの努力をやめて、阿弥陀仏の他力本願の力に帰依するだけで良い」という考え方をすると心が軽くなるのは、なぜか自然と理解できる気がするんだけど、「受動意識仮説によって、自分の意思決定の0.35秒くらい前の段階で無意識に全てが決定してくれている」という考え方についても、他力本願の考え方と同じように、心が軽くなる気がした。僕は、阿弥陀仏よりは受動意識仮説の方が断然納得できるんだけど、結局、自分の気持ちを軽くするための道具として捉えるのであれば、僕にとってはどちらでも構わないのかも。

 

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日本は今のタイミングで移民を受け入れといた方が良い説

宗教 歴史 社会

この間YouTubeで見た動画が面白かった。この500年間における世界の覇権国の栄枯盛衰について、ユダヤ人の足跡を辿りながら説明するという講義の動画で、講師の高原剛一郎氏のかなり勢いのある話し方も面白かった。

 

詳細はまぁ動画を見れば分かるんだけど、一応、僕なりに(かなり乱暴に)内容をまとめてみた。

 

旧約聖書に、「ユダヤ人を祝福するものは祝福され、ユダヤ人を呪うものは呪われる」みたいな一文があるらしい。なんと、この旧約聖書の一文が、この500年の世界史を見事に説明しているという。つまり、ユダヤ人を優遇した国は急に栄えて覇権国となり、やがてユダヤ人がその国に見切りをつけると、急に覇権国の座から没落する、というパターンで世界史は展開されているらしい。

15世紀16世紀あたりのスペイン・ポルトガルでは、中世イスラム社会で重用されていたユダヤ人達がイベリア半島にいたおかげもあって黄金時代を築いたけど、次第にカトリック勢力が拡大してきて(いわゆるレコンキスタ)ユダヤ人の肩身が狭くなった。異端審問によるユダヤ人迫害がなされるようになると、ユダヤ人は逃げてしまって、ユダヤ人のいなくなったスペイン・ポルトガルは没落した。

で、その異端審問で迫害されたユダヤ人が逃げていった先が、オランダという国で、17世紀の覇権国はオランダという事になった。オランダはプロテスタントが多い国で、スペイン・ポルトガルでの異端審問ではプロテスタントも同じように迫害されたらしく、迫害された者同士ということで、オランダはユダヤ人に寛容だったらしい。しかしオランダがスペインとの長い戦争(なんと80年もやってたらしい!)で疲弊し、勢いをなくしてしまう。

次は、18世紀19世紀の覇権国はイギリスという事になるが、この時代のイギリスは最もユダヤ人に寛容といっても良いくらいユダヤ人に寛容だったらしく、ディズレーリという人は、ユダヤ人でありながら、なんとイギリス首相にまで登り詰めたらしい(しかも、"ディズレーリ"という名前は、イスラム教でいうところの"ムハンマド"的な、名前を聞いたら一発でユダヤ教徒であることがバレるという感じの名前だったらしい)。彼はユダヤ人のコネを生かし、ロスチャイルド家の資本でスエズ運河会社の株を買収するという敏腕ぶりを発揮したという。

で、二度の世界対戦でイギリスが疲弊した後、ユダヤ人の国、イスラエルが建国される。そのイスラエルに最も好意的だったのがアメリカだった。こうして覇権国の座はアメリカへと完全に移行する。

 以上の事から、「ユダヤ人を祝福するものは祝福され、ユダヤ人を呪うものは呪われる」という旧約聖書の予言はことごとく当たっているということが分かりますよね!!

 

…とまぁ、だいたいこんな感じの事が講義の中で話されていた気がする。

 

僕がこの講義を聞いて感じたのは、国の栄枯盛衰のひとつの要素として、優秀な人材を確保するのはかなり重要なのかもしれないということ。「ユダヤ人だろうが何だろうが、能力のある人間なら誰でも良いから俺の国に来てくれ!」というオープンな姿勢が、国を繁栄させるためには大事なのではなかろうか。

今の日本も、移民をもっと受け入れても良いんじゃないかと思った。最近世界では日本が流行っているとテレビでもよくやってるし、今、このタイミングで日本が移民を受け入れるという事を決断すれば、日本が好きで能力の高い移民が集まりやすいという気もする。もちろん弊害も大きいかもしれんけど(例えば、日本人の職が奪われるとか、治安が悪くなるとか、日本に対して悪意を持っている国が政治的な意図を持って移民をどんどん送り込んでくるとか)。まぁ上手く厳選して移民を受け入れるのであれば、優秀な人材をたくさん集めるという観点において大きなメリットがあるかも。そして、その優秀な人材をたくさん集めるという事こそが、国の繁栄の秘訣なのかも。という事は、もしトランプがアメリカ大統領に当選したら、彼はわりと排他的な政策をやりそうな感じなので、アメリカはちょっと衰退するかも。

 

あと、ユダヤ人は少数派で嫌われ者なのに、何故こんなに重要なポジションにいるのかを考えたんだけと、たぶん、少数派で嫌われ者だからこそ、彼らは必死で勉強したのかもしれないという気がする。ユダヤ人の歴史は、それこそ常にサバイバルだったから、世の中を上手く渡っていくための嗅覚みたいなものが自然と身に付いてしまったのかも。また、生活の上でユダヤ教の規律を守ることで、団結力を高めてたってのもあるかも。ユダヤ教という一見かなり面倒くさい縛りプレイをして皆から嫌われるという事が、苦労をものともしない精神を育てたのかも。イスラム教にもかなり面倒くさそうな戒律があるけど、それも団結力を高めるために必要だったりして。宗教って良くできてるなぁ。まぁ僕は信じないけど。

 

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世界がもし100人の村だったら、わりと平和な村になる説

社会

なぜ、この世界から戦争はなくならないのかというと、僕が思うに、一番の原因は、「人間は、自分と関係の薄い他人が死んでも、あまり心が痛まないから」である。

 

なぜ僕は、今この瞬間にも世界のどこかで起きているであろう戦争で多くの人間が死んでいても、あまり心が痛まないのかというと、その戦争が起こっている場所が、自分の住んでいる場所からかなり遠い場所にあるとしか思えないからである。僕の想像力は、地球全体をカバー出来るほど大きくはない。

 

しかし、世界がもし100人の村だったらどうだろうか。100人の小さな村の中で、もし殺したいくらい大嫌いな奴がいたとしても、小さな村の中だから、そいつの親兄弟の顔を知らないという事はないだろうし、そいつを本当に殺してしまったら自分の心もかなり痛むという事は容易に想像できるはずだ。そんなわけで、小さな村の中では、あまり殺し合い(戦争)は起きにくいと思われる。

つまり、世界から戦争をなくすためのひとつの方法として、世界の人口を100人に厳選して小さな村を作るという方法も考えられるけど、まぁそれは無理として、僕が思うに、人間と人間の距離を縮める、というのが、わりと良い方法なのではないだろうか。

 

例えば、人間と人間の距離を縮める手段としては、インターネットがかなり良い手段だと思う。もし、世界中の全ての国で、インターネットがなんの制限もなく使えるようになったとしたら、それだけでかなり永遠平和に近づくと思う。ネットさえあれば、世界の裏側の人間ともある程度の情報共有が出来るし、自分とある程度情報共有している人間が死ねば、ある程度心が痛むんじゃないだろうか。

あとは、戦争するとお互い致命的な経済的打撃を受けるってくらいの経済的な繋がりを持つと良いというのを聞いたことがあるけど、まぁそれは今でもわりとそうなってるかもしれない。中国と日本が戦争するなんて事になれば、中国と日本はもちろん世界中が不景気になる気がするし。まぁ中国共産党だってそんな事分かってくれてるよね(戦争未満の範囲では何でも有りって感じだけど)。