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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

長谷川豊氏が人工透析患者を中傷している件について ~人間が生きものの生き死にを自由にしようなんておこがましいとは思わんかね~

長谷川豊氏が人工透析患者を中傷した件で、少し思うところがあった。

 

まず、長谷川豊氏を擁護する立場から出発してみる。

姥捨山」とか「ヘンデルとグレーテル」であるように、貧乏に耐えきれなくなった大人が、弱い立場の人(老人や子供)を口減らしのために捨てるという昔話もある。

野生の動物の世界では、子供が二匹いたら出来の良い方だけにエサをたくさん与えて、もう一匹は、出来の良い方が死んだ時の保険として育てるみたいなペンギンがいるという話を昔テレビで見たことがある。

つまり、この世の中には、弱者を泣く泣く切り捨てる、というような「自然淘汰の法則」がある。

ちょっと前に、障害者施設の殺人事件があったけど、あの犯人もたぶん「弱者は切り捨てるべき」たみたいな思想から犯行に及んだとか言ってた気がするけど、そういう思想を持った人間が、社会の中に少しだけ存在している事は、ごく自然な事なのかもしれない。逆に、そういう犯罪者が全く存在しない社会の方が、よっぽど異常事態だと思う(そういう社会を実現するためには、たぶん、犯罪者っぽい人を片っ端から殺すくらいの超法規的な粛清を日常的に行う必要があると考えられる)。

この流れでいけば、長谷川豊氏の言っている事は、自堕落な人工透析患者は死んだ方が良いという発想は、そんなに不自然な事でもないのかも。

 

ただ、昔ならともかく、現代の日本という豊かな国の中では、昔なら死んでいた人が普通に助かるという事例の方がむしろ普通である。現代の医療技術で助かるはずの人を、わざわざ何もせずに切り捨てて、それを"自然淘汰"と断定するのは、逆に不自然な事のようにも思える。

一体、どこからどこまでが自然な事で、どこからどこまでが不自然な事なのか。どこからどこまでが自然淘汰されるべき人間なのか。自堕落な生活を送った末に人工透析患者になって医療費を食い潰す人達は死ぬべきなのか。

 

僕は正直、長谷川豊氏のいう事には、あまり賛同できない。人工透析患者をわざわざ死なせるなんてやっぱり不自然な事だと普通に思うし、手塚治虫ブラックジャックに出てくる、あのドクターキリコ(キリコは安楽死という口実で安易に患者を殺しまくる恐怖の医者である)ですら、助かる見込みのない患者であれば容赦なく殺しまくっていたけど、助かる見込みのある患者はちゃんと助けていた気がする。

 

ただ、僕は、世間から叩かれている人間を見ると、なぜか、その叩かれている人間を擁護したい、と何の理屈もなく思ってしまう性格なので、何もそこまで長谷川豊氏を叩かなくても良いんじゃない?という気もする。たぶん、彼だって、ちょっとした出来心だったに違いない。本当に真剣に人工透析患者に殺意を抱いている危険人物なら逮捕しても良いと思うけど、彼の場合は、注目を集めたいがためだけに、少々過激な発言をしただけって感じがする。

ともかく、今回の件で注目を集める事には成功したんだから、もちろんテレビを降板させられたのは痛かったけど、それをバネにして、テレビ以外のところに活路を見い出せば良いじゃん、と僕が彼の立場ならそんな風に無理矢理ポジティブに考えるかも。

ドゥテルテ大統領の麻薬中毒者虐殺について

僕が働いていた職場で、安い飛行機を見つける度に有給を取って、海外旅行に行きまくる課長がいた。アジアへの便は特に安いのが多いらしくて、アジア方面にはわりと見識が広い人だった。

ある時、その課長が、フィリピンのマニラに行ってきたらしく、

「とにかく、貧富の差が激しかった。街は都会だけど、ほんのちょっと街の中心から外れると、人権もクソもないような人間達がたくさん暮らしていた。おれ達の抱く仕事での悩みなんてどうでも良くなってくるなぁ!色々あるけどたぶん何とかなるって!まぁ林くんも頑張れよ!」

というような事を言っていたのを覚えている。

 

最近、フィリピンのドゥテルテ大統領のニュースをよく見る気がする。昨日のニュースで読んだけど、ヒトラーのユダヤ人虐殺になぞらえて、「数百万人の麻薬中毒者を喜んで殺害する」と大っぴらに言ってのけたらしい。ヒトラーだってユダヤ人虐殺はこっそりやってたんじゃなかったっけ?

僕は、彼に少し興味を持ったので、ウィキペディアを読んで見る事にした。

すると、彼はヒトラーというより、スターリン毛沢東に近いというか、わりと共産党色の強い人間らしいという事が分かった。素晴らしい正義を振りかざしておいて、その正義を否定する人を徹底的に叩き潰すスタイルは、僕の思う共産党のイメージにぴったりな気がする。

というのも、彼の大学時代の恩師が、フィリピン共産党の創設者(ジョマ・シソン)だったらしいし、実際に共産党員には協力な姿勢を見せているらしいし、アメリカ大統領選では、民主党のサンダース(わりと共産っぽい考えの人だった気がする)を推していたらしい。でも、南シナ海の件では、中国共産党に文句を言っているらしい(今のところ?)。

 

彼が大統領になったのは2016年の6月30日でわりと最近の出来事だけど、それ以前は、二十数年間もの長い間、ダバオ市長をやっていたらしい。で、麻薬中毒者虐殺に関しては、そのダバオ市長時代からひっそりヤっていたらしい。しかしそのおかげで、ダバオ市は「東南アジアで最も平和な都市」を標榜するくらい治安が良い街になったらしい。実際に治安が良くなったのもあって、麻薬中毒者虐殺はどんどんやるべき!という人もいて、実際、彼はそういう公約を掲げて大統領選挙に勝ったとのこと。確かに、フィリピンというのは、人権もクソもない国なのかもしれない。

 

例えば、フィリピンには、めちゃくちゃ貧乏で麻薬と関わることでしか生きていけないような境遇の人だっているかもしれないけど、たとえ麻薬中毒者だったとしても、そういう人を殺すのは可哀想だなぁとは思う。現代のフィリピンで、こんなに適当に人の命が扱われているなんてびっくりした。まぁ日本でも「金は命より重い」とか言ったりするけど。

 

ともかく、命が重いとか軽いとか、人殺しが良いとか悪いとか、そういう事についての絶対的な基準はない、と改めて思わされた気がする。あと、ドゥテルテ大統領は、自分のやっている事が正しいと思っているかどうかは知らないけど、もし、絶対的に自分が正しいと思ってやってるとしたら、ちょっと怖いなぁと思った。まぁ誰だって多かれ少なかれそんな一面があるのかもしれないけど。

 

フィリピンってキリスト教徒が多かった気がするけど、もし、イエス・キリストが現代のフィリピン人だったら、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この麻薬中毒者を殺しなさい」とでも言うんじゃないかなぁ。

”後世への最大遺物”が青空文庫で気軽に読めて、普通に面白かった ~太宰もハマったキリスト教~

太宰治ADHD説”という本を読んでいたら、「太宰治キリスト教にハマったのは内村鑑三に感化されたからだ。」みたいなことが書いていたので、僕は内村鑑三に少し興味を持った。

ラッキーなことに、NHKの”100分de名著”という番組で内村鑑三の”代表的日本人”という本が取り上げられていたので、とりあえずそれを見てから、番組内でとりあげられていた”後世への最大遺物”も読んでみた(青空文庫で気軽に読めた)。

 

 

後世への最大遺物”はなかなか面白かった。

かなり大雑把に内容をまとめると、

 

人間は、

  1. 事業に使うための(溜めるためだけの金でない)
  2. 事業(土木事業のようなもの)
  3. 思想文学
  4. 勇ましい高尚なる生涯(これが一番大切)

のうちのどれかを後世に残すべきである!

 

というようなことが書いてあった(詳しく知りたい人は読んでみたらいいと思うよ)。

 

僕は個人的に太宰治がわりと好きなので、「太宰は内村鑑三のどんなところに影響を受けたのかなぁ」という視点で読んでたけど、そこらへんは何となく納得できたように思えた。

 

特に、文学について書かれた部分については、太宰っぽいと感じた。

以下、太宰っぽいと感じた部分を抜粋。

文学はわれわれがこの世界に戦争するときの道具である。(中略)この世界の敵なる悪魔を平らげようとの目的をもって戦争をするのであります。

実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。

 

なんだかんだで太宰の文学を評価する人が絶えないのは、どれだけふざけたところがあっても、彼の本当のありのままの思いがどこかに含まれているからじゃないかと思う。

あと、まぁよくわからんけど太宰なりに”目に見えない何か”と戦っていたに違いないように思う。何と戦ってたのかは知らんけど。たぶん、お下劣な世間とか対人恐怖による苦しみとか結核とかと戦ってたんじゃないかなぁ。かわいそうに。

 

”後世への最大遺物”に話を戻す。

勇ましい高尚なる生涯についての部分もふに落ちた。

 

わかりやすかった例えは、二宮金次郎は彼の事業によって確かに多くの村の人民が救われたけど、その事業による功績よりも、彼の生き様二宮金次郎像で象徴されるような、根気強く勤勉な勇ましい高尚なる生涯)を知ることによってインスピレーションを受け、勇気づけられた人々がたくさんいる、という功績の方が大きい。つまり、金・事業・文学を遺すよりも、勇ましい高尚なる生涯を遺すということが、何より価値のあることである。

みたいなことが書いてあって、なるほどなぁと感心してしまった。

 

 

ただ、納得できない部分もちょっとあった。

一番納得できなかったのは、源氏物語をディスってる部分は全然納得できなかった。まぁ福沢諭吉実学重視を説いていた時代だから、源氏物語のような実学とは程遠い物語は総じて評価が低かったという時代背景があるらしい。

 

あと、

関東に往きますと関西にあまり多くないものがある。関東には良いものがだいぶたくさんあります。関西よりも良いものがあると思います。

の部分は、関西に愛着のある人間としては「ちょっと待てよ!それって差別じゃない!?」と一瞬思ったけど「まぁわからんでもない」という気もした。

 

 

最後に、キリスト教を1ミリも信じていない僕が思うに、ぶっちゃけ、内村鑑三からキリスト教の要素を全て抜いたとしても、特に変わらないんじゃないかという疑惑が湧いてきた。

もしも仮に、内村鑑三が一生キリスト教抜きの生涯を送ったとしても、信仰の力に頼らずとも自分の強い意思の力だけで、勇ましい高尚なる生涯を送るだけの器を持った漢だったんじゃないかなぁ。

 

内村鑑三は、ふたつのJを大事にしたといわれている。

それは、「ジーサスイエス・キリスト)」と「ジャパン」のふたつである(って100分で名著で言ってた)。

でもそれって、ジャパンを大事にするために、ジーザスを使うのが都合良かっただけなんじゃないかなぁという気がしている。

 

というのも、彼の非戦論について、ウィキペディアの記事を読んだんだけど、軸がぶれているというか、二枚舌というか、ご都合主義ではないかという感じを受けてしまった。

という事実から察するに、それって単に誰が見ても日露戦争での日本の勝算が低かったからビビって非戦論にしたと言われてもしかたがない気がした。

それに、

  • 「徴兵拒否したい」と相談に来た青年に対して「兵役には行った方がいい」

と発言したらしいけど、そこらへんに関する説明を読んだ後でも、非戦論を唱えている人間が「兵役に行った方がいい」と言うのは無責任じゃないかという気がする。

 

結局、彼自身が行動するための理屈を補完するものが、たまたまキリスト教の中に存在していたってだけで、キリスト教がなくても内村鑑三日露戦争では非戦論を唱えたに違いない気がするし、キリスト教がなくても何らかの金・事業・思想・勇ましい高尚なる生涯を確実に後世に残したであろうと思われる。

 

 

 

…なんか思ったより否定的な内容を書いてしまったけど、「僕は個人的にキリスト教を信じない」というだけのことで、僕はキリスト教が間違っているなんて1ミリも思っていない。僕の心の中には神は存在しないけど、キリスト教徒の心の中では、確かに神は存在していると思っている。

 

とにかく、”後世への最大遺物”を読んで僕は普通に感動したのは間違いないし、青空文庫で気軽に読めるので、読んだことがない方には是非読んでみることをオススメしたい(太宰治が好きな人には特にオススメしたい)。100分de名著の”代表的日本人”の回も面白かったし。

『いつまで生きてるつもりだ』ってのは若者も考えるべき説

麻生太郎氏が、北海道小樽市の講演(2016年6月17日)で、

『90になって老後が心配』とか、訳のわからないことを言ってる人が、この前、テレビに出てたけど、『いつまで生きてるつもりだよ』と思いながら、僕は、テレビを見ていましたよ

と述べたんだけど、「高齢者への配慮が足りない」という批判が出ているらしい。

 

基本的には、政治家にとってもマスコミにとっても高齢者はお得意様だから、そういう意味では麻生氏の発言は良くない。

 

一方、ネットには比較的若者が多いので、「麻生の方が正論じゃねーか」という意見がかなり見られる。僕もこっち側に属する。

 

「麻生の方が正論じゃねーか」という人達って、高齢者じゃない自分には全く該当しない他人事として「麻生の方が正論じゃねーか」って言っているように思える。 

しかし、『いつまで生きてるつもりだ』という問いかけは、なにも高齢者に限った話ではなく、若者にとっても十分に考える価値があるような気がしてならない。

というのも、麻生氏の発言の、

90になって老後が心配』とか、訳のわからないことを言っている人

90”を自分の年齢と置き換えても、意外と間違いじゃないということに、僕は気付いてしまったのだ!

 

たぶん、老若男女限らず、「自分は一体『いつまで生きてるつもり』なのか?」と考えることは、より良く生きるために役立つような気がする。

 

ところで、スティーブ・ジョブズ氏が例の有名なスピーチで、「自分がいつか死ぬということを分かっているのは大切だ」みたいなことを言ってたけど、自分の命が有限なことは意外と忘れがちだと思う。

 

ビル・ゲイツだろうが、オバマ大統領だろうが、イチローだろうが、誰だって一人の裸の人間だから、金を持ってたり権力があったり才能があったりしても、結局それらは全部飾りで、死ぬ時は誰だって一人の裸の人間として死ぬ。

 

人は死ぬ。老後への備えをいくら完璧にしても、死ぬことには変わりないんだし、老若男女限らず、もっと適当に好き勝手に生きた方がいいと思う。

高齢者には程遠い僕がそう思うくらいなんだから、「『90になって老後が心配』とか、訳のわからないことを言っている人」は、高齢者だからこそ思いっきり適当に好き勝手に人生を謳歌して欲しいなぁと心から思う。

人間失格に学ぶ”幸福の観念”

NHKの”100分de名著”の太宰治の「斜陽」第4回目で、ピースの又吉(太宰の大ファンらしい)が「太宰を再読すると新しい発見がある」みたいなことを言ってたので、僕も太宰を再読することにした。

 

太宰を再読するとは言っても、僕が読んだことがあったのは、国語の教科書に載ってた「走れメロス」と、大学4年生の時に研究室になぜか置かれてた「人間失格」を暇つぶしに読んだのと、合計2つだけだった。

 

人間失格」を読んだ大学4年生の僕は、「これは太宰治の遺書なんだ」としか思えなくて、「太宰治の遺書を今自分は読んでいるんだ」って視点で読んでたら、面白くて面白くて一気にすらすら最初から最後までノンストップで読んでしまったような記憶がある。

 

 

で、今になって、「人間失格」を再読してみたら、「やっぱり基本的には小説で、死ぬ直前の太宰が本気出して小説を書いたら結果的に遺書みたい作品ができたのかも」って視点で読んだから、正直、初読のときほどは面白くはなかったんだけど、そのかわりに、一歩引いた視点で読めたというか、「太宰治って普通の人間とどういうところが違ったのかなぁ?」という視点で読んだら、初読のときは全然気付かなかったことに気付いた。

 

 

太宰治のいう幸福と、一般人のいう幸福は、何が違うのか?

 

  • 太宰治は、金持ちの家に生まれ、頭が良くて、女にモテモテの絶倫で、小説家としても天才だった。
  • 一般人は、貧乏な家に生まれ、頭が悪くて、異性にモテることはなく、特別な才能も一切持っていない。

はたして、太宰治と一般人のどちらが幸福だろうか?

 

 

人間失格には、こんなことが書いてある。

 つまり自分には、人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
 自分には、わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?

 

金持ちでモテモテで売れっ子作家だったのに、太宰治はとても苦しんでいたらしい。

 

 

太宰にとって、幸福は”財産の大小”や”家族・恋人の有無”や”才能の有無”で決まるものではなかった。

 

大雑把に言うと、宝くじの高額当選者が意外と不幸な人生を歩んでしまうように、太宰は生まれ持っての金持ち・モテモテ・天才だったからこそ不幸になってしまったのかもしれない。

 

たぶん、生まれ持っての金持ち・モテモテ・売れっ子天才作家だったからこそ、

  • 他人から妬まれる
  • 「もっと金持ちになろう」「モテモテになろう」みたいな目標を掲げることができず、虚しくなってしまう
  • 一般人には太宰が恵まれた”仕合わせ”者にしか見えないため、その虚しさや苦しみを一般人には理解してもらえない。

もし太宰が貧乏で狭い家で生まれ育っていたら、少なくとも、性的虐待をするような下男下女と関わることはなかっただろうし、他人から妬まれることは少なかっただろう。

 

結局太宰にとっての幸福はなんなのか?というと、「幸福=苦しみを消すこと」だったんじゃないかなぁと僕は思う。

 

とにかく、太宰は苦しくて苦しくてたまらなかったらしい。

 

たぶん、太宰は「他人からどのように見られるか?」ということに敏感で、対人恐怖を感じすぎる性格であった。

その対人恐怖には良い面も悪い面もあったと思う。

 

良い面としては、対人恐怖をまぎらわすために、他人を笑わせるために無償のサービス精神を幼少の頃から発揮してきたからこそ、作家としての才能が磨かれたというところがあると思う。太宰治の根底にある理念として、「対人恐怖から生まれた無償のサービス精神」というのがある気がする。

 

悪い面としては、対人恐怖を必死になって隠ぺいしてしまうから、本当の性格が他人に理解されないというのがあると思う。

あと、「無償のサービス精神」を持っていた太宰は、他人に対して自分の損得を度外視してやさしく接する性格だったから、自分の損得だけを考えて行動する人間のことが理解できなかったし、許せなかったんじゃないかと思う。

 

普通の人間だったら、「人間なんて所詮自分のためだけに生きるものだよね」という風に、ある程度は割り切って生活しているもんだと思うけど、太宰はその辺に強いこだわりがあった。

司馬遼太郎は、「太宰は聖なるものを求めた作家」だと言ったらしい。やっぱり根っこの部分においては、名家に生まれた身として聖なるプライドを持っていて、だからこそ、世間に蔓延するエゴイズムに対して怒りを隠すことができなかったのかも。そういう怒りを他人にぶつけてしまって、普段から妬まれてるからよけいに反感を買うし、誤解もされるし、ますます太宰の人間不信や対人恐怖を増幅させるという負のループに入ってたのかも。

 

 

この日記のタイトルに戻るけど、太宰治の”人間失格”から、幸福の観念について何を学べるだろうか?というと

  1. 幸福をお金や才能に求める必要はない
  2. 他人からどう思われるかを気にしない
  3. 肝要な心を持つ

の3つにまとめるくらいが無難な気がする。

 

 

この日記を書き始める前は、本当のところは、「幸福とはお金や才能の有無じゃなくて、寝食忘れて何かに熱中することである!太宰は作家という天職についていたから、そういう意味では太宰は幸福だったはずだ!」みたいなことを僕は言いたかったんだけど、そんな幸福とは比較にならないくらいに、太宰の抱える苦しみが重すぎる気がしたから、やっぱり「人間失格に学ぶ”幸福の観念”は何か?」という問いに対しては、「幸福=苦しみを消すこと」という答えの方が妥当かもしれないとということに気付いた。ピース又吉が言ってた通り、太宰を再読したら新しい発見がいくつもあった。

 

ところで、人間失格を再読したついでに、斜陽とお伽草子津軽を読んだ。お伽草子は、普通に思わず笑わせられたところがいくつもあった。斜陽は、かず子が上原へ何回も手紙を送りつけるところとか、女性特有のわけのわからなさが強烈に感じられる気がしたけど、その辺は絶倫太宰の観察力と文才のなせる技なのかなぁ。たぶん今後僕は定期的に太宰を再読してしまう気がする。あと、太宰を超お手軽に読ませてくれる青空文庫に感謝。

親鸞のやさしさに包まれたなら 全てのことはメッセージ

最近、「100分de名著」というNHKの番組を見るのがマイブームなんだけど、”歎異抄”の回を見て、すごく感銘を受けた。神仏を1ミリも信じないこの僕が。

 

歎異抄は、親鸞の教えについて親鸞の弟子が書いた本らしい。

僕が中学生の頃、鎌倉仏教の3人(法然親鸞・一遍)について習ったけど、「一遍の踊り念仏は逆にロックンロールでかっこいいから良いとしても、ナミアムダブツと唱えるだけで、”他力本願”で人が救われるという法然親鸞だけはありえない!」みたいな感想だった気がする。

 

歎異抄は「誤解されやすい本」と言われているらしいけど、僕はどうやら今まで親鸞の言う他力本願を誤解していたらしい。

 

僕は、親鸞の教えを、自分なりにこんな風に解釈した。

  1. まず、「自分の力で何かを変えよう」という一切の努力を放棄する。
  2. ”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、あるがまま受け入れる
  3. あるがままの”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、阿弥陀如来というありがかい神様が、「もう自力で頑張らなくても良いのよ」と抱きしめて許してくれる
  4. すると、かえって逆に、「阿弥陀如来がいくら全てを許してくれるとは言っても、おれはここだけは絶対にゆずれねえ!」というような、自分の心の奥底にある自然な意思に気づくことができる
  5. 自力で無理矢理に頑張るというのではなく、自分の自然な意思に従って行動できるようになる

僕は阿弥陀如来の存在なんて1ミリも信じていないけど、やさしい微笑を浮かべた阿弥陀如来をイメージして目を閉じてみたら、なんだか心が軽くなるような気がした。

阿弥陀如来の存在はウソだったとしても、庶民を救いたいがために、一生懸命こういうことを考えてくれた法然親鸞のやさしさは紛れなく本物に違いないような気がしてきて、それだけですごく有り難い気持ちになったような気がした。

 

 

 僕の妄想なんだけど、たぶん、法然はやさしさの塊のような人間で、「修行僧以外の普通の人を救いたい」という一心から、阿弥陀如来を利用して、それまでの仏教のやり方を180度逆転させるような革命的なことをやってしまって、親鸞と仲良く一緒に流罪になった。法然はやさしいだけでなく、ロックンローラー的な性格だったのかなぁ。

 

親鸞もやさしさとロックンロールを兼ね備えた人だけど、僧侶のくせに堂々と結婚して6人も子供を作ったところとか、法然以上にロックンロール色が濃いかも。

たぶん、法然に出会う前の親鸞は、「このまま修行を一生続けたとしてもおれの煩悩は一生消すことはできないのではないか?」ということに悩んでいた矢先に、法然阿弥陀如来方式の教えに出会い、そしてだんだんと親鸞オリジナルの方向へとルールを修正していったんじゃないかなぁ。

 

法然親鸞も、今までの仏教にはとらわれずに、「ともかく世の中の人を救いたい」とか、「どんなに修行しても消せない自分の煩悩にウソをつきたくない」とか、そういう思いが根底にあったんじゃないかなぁ。「人が救えるんなら神仏がいようがいまいがどっちでも良いじゃん」とか言いそう(さすがに言わんか)。

だから、たまたま仏教が流行ってた時代の日本に生まれたけど、もし生まれる時代や場所が違ったら、普通に政治家とか、哲学者になってたんじゃないだろうか。

「この世界は神が書いた一冊の小説である」説 ~イワン・カラマーゾフの無神論に対する提言~

ロシア文学の巨匠、ドストエフスキーカラマーゾフの兄弟という小説の登場人物、イワン無神論者である。

 

イワンの言い分はこうである。

「もし神がいるとしたら、悲惨な虐待を受けている子供たちがこの世界に存在している。子供たちには何の罪もないのに。悲惨な幼児虐待がこの世に存在しているということ自体が、神が存在しないことの証明であるし、仮に神が存在していたとしても、幼児虐待を認めるような神を私は絶対に認めない。」

これは正論だと僕は思う。

神を信じている人はこれに一体どうやって反論するか心配になるくらい、正論だと思う。

 

イワンの言っている幼児虐待に限らず、この世界には悲惨なことがたくさんある。神を信じていない僕みたいな人間が悲惨な人生を送るのは自業自得だから文句はないけど、「純粋に神を信じているのにむごい人生を送っている全然救われない人々が、あまりにも多過ぎるのではないか?そこんとこはっきりしろ神様!」と、誰しもが一度は考えるのではないか。この世界を創った神は、一体何を考えているのかなぁという疑問は僕の中で深まるばかりであった。

 

今まで、僕の中で深まる疑問に対していろいろ考えてたんだけど、ついに僕はある答えに辿り着いた。

 

それが、「この世界は神が書いた一冊の小説である」説である!

 

「この世界は神が書いた一冊の小説である」説とは

仮に、あなたが小説家だとして、一冊の小説を書くとする。

「私は世界をりました。大地やら海やら空やら生物やら、とにかくいろいろって、最後に人間をりました。人間は誰一人として不幸ではありません。みな幸福です。」

みたいな、退屈な小説を書くだろうか。

 

きっと賢明なあなたなら、例えば、「アダムとイブが禁断のリンゴを食べちゃった」とか、「大洪水が起きてノアの箱舟を作った」とか「キリストが裏切られて処刑された」とか、100%幸福な話には絶対にならないはずだ。

 

で、仮に、自分の小説の中で「悲惨な虐待を受けている子供たち」を登場させたとしても、べつに自分の作った小説の中でいくら悲惨なことが起きたって、それは作者であるあなた自身の作り話だから、あなたは全然悪くないはずである(小説の中の登場人物には作者を悪く言われる可能性はあるけど)。

100%幸福でつまらない話より、悲惨なことも起きる面白い話を作りたいと思うのは、ごく自然なことじゃないだろうか。

 

僕の妄想だけど、神様がいるとしたら、こんなややこしい世界をっちゃうくらいだから、神様って時間が余りまくってて、退屈で退屈で仕方がないんじゃないだろうか。

この世界をったのも単なる退屈しのぎで、決して人間を救うためじゃない気がする。というか人間をったのも神様なんだから、人間を救うためにわざわざ人間をるなんて変な話だ。

 

小説の作者は登場人物を救うために小説を書くわけでわない。小説を面白くするためとか、自分の考え方を世間に伝えるためとか、そういう理由のために、登場人物を利用するのである。登場人物をいくら痛めつけたところで、それが小説の中での出来事である限り、罪に問われることはない。

(…いや、小説家が罪に問われることも一応あるなぁ。内容があまりに過激すぎて投獄されるとか。でもそれって、あくまで小説の外側にいる存在が作者に罪があるかどうかを決めるのであって、例えばカラマーゾフ・イワンのような、小説の中のひとりの登場人物ごときに「作者には罪がある」って言われる所以はないから、やっぱり、「小説家の作った世界の中では、罪に問われることはない」という結論に至る。)

 

 

ところで、僕はカラマーゾフの兄弟は上巻だけ読んで、ギブアップしてしまったような気がする。下巻からが一番面白いらしいね。まぁいつか気が向いたら読みたいと思っている。

”人は怒りを捏造する”にどうしても納得できない人へ【アドラー心理学】

アドラー心理学のベストセラー、嫌われる勇気の中で、こんな事例が挙げられている。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。普段は温厚な私だけど、その時ばかりは怒りに駆られて、つい思わず大声で怒鳴りつけてしまった。」

 

この事例をアドラーの目的論で解釈すると、こんな風に言い換えることができる。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。大声を出して怒鳴りつけることで、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分の言うことをきかせるための手段として、怒りという感情を捏造し、利用した。」

 

つまり、

「私はウェイターにコーヒーをこぼされた」ことが原因で仕方なく怒ってしまったのではなく、「大声で怒鳴りつけてミスを犯したウェイターを屈服させる」という目的のために怒りの感情をわざわざ捏造した。

というのがアドラーの目的論的な考え方である。

 

 

嫌われる勇気を読んでいて、僕が疑問に思ったのは、「”ミスを犯したウェイターを屈服させる”みたいな複雑な事を一瞬のうちに考えて怒るほど人間って高度な生物なのかなぁ?」ということ。

しかも、それが正しいという科学的根拠があるとは一切述べられていない。

 

疑問に思った僕は、自分なりに調べてみることにした。

 

先程の「ウェイターがコーヒーをこぼして私が怒った」という事例において、私が怒るに至った経緯を簡単に説明すると、次のようになる。

  1. ウェイターが私にコーヒーをこぼす
  2. 私に外的刺激が与えられる(私にコーヒーがかかる)
  3. 外的刺激に対して、機械的な生体反応(緊張・発汗・心拍増加・血圧上昇…etc)が起こる
  4. 自分の機械的な生体反応を私自身が認知する
  5. 今までの常識や習慣に基づいて、今自分が置かれている状況に適切な感情を選択する(感情をラベリングする)
  6. 選択された感情が”怒り”である場合、”怒り”の感情に基づいて行動を起こす
  7. 大声を出してウェイターに怒鳴りつける

これらのことが無意識下で一瞬のうちに行われる

 

どのような順序で感情が生まれてくるかというのは未だに結論が出ていないらしい(情動を巡る論争)けど、”シャクターの情動二要因理論”が一応主流っぽい気がしたので、ここではそれを参考にした。

シャクターの情動二要因理論で有名なのは、吊り橋実験である。

この実験では、被験者の男性は「吊り橋を渡る恐怖感によるドキドキ」を「魅力的な異性と対面したドキドキ」と間違えて認知してしまう。

つまり、同じ生理学的変化(心拍数の増大や緊張の増大)から、生理学的変化がどういった感情や状況によるものなのかを推測して、適切な感情をラベリングするという無意識的(潜在的)な過程が存在すると考えられている。

 

 

で、もう一度「ウェイターにコーヒーこぼされた事件」に話題を戻す。

例えば、「ウェイターが筋肉ムキムキ身長2mの黒人男」だった場合を考えてみて欲しい。おそらく、私は怒りの感情をラベリングするのではなく、恐怖の感情をラベリングして、大声で怒鳴りつけることは絶対にしなかっただろう。

今度は、「ウェイターが魅力的な異性」だったらどうだろうか。この場合は、怒りでも恐怖でもなく、恋愛感情をラベリングして、連絡先を交換しようとするかもしれない。

 

 つまり、「無意識下において、その場その場における適切な感情を選択している」ということが言えるんじゃないかと思う。

 

 

結局、アドラーのいう「人は怒りを捏造する」は、少し間違えていると思う。

「人は怒りの感情を選択する」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

 

「人は怒りを捏造する」というと、あたかも自分の感情を自由自在に変えることができるような錯覚に陥ってしまう。

しかし、実際には、感情をラベリングするのは無意識下のことなので、自由自在に感情を変えることはできないはずだ。

もちろん、無意識に体に染みついたその人の習慣や常識を、少しずつ変えていくことも可能だと思う。しかし、それは「地道にスポーツを練習してだんだん上手くなっていく」のと同じように、強い意志を持って努力しなければ、無意識下の習慣や常識は簡単には変えられないのが普通なのではないだろうか。

あたかも「アドラーの教えを聞いたら途端に自分が変わって幸せになる」みたいな文章を見かけることもあるけど、そんなウマい話があるわけない。やはり、「自分を変えるには、無意識下の習慣や常識を地道な努力によって変えていくほかない」し、「もちろん地道な努力をしたところで本当に自分が変われるという保証も全く無い」ってのが現実なんじゃないだろうか。

 

アドラー心理学の納得できないこと3つ

僕はアドラー心理学には納得できないけれどアドラーのことは嫌いではない。というか素直にアドラーは偉人だと思う。

 

アドラーは幼い頃、声帯のけいれんとくる病に苦しんだ。肺炎で死にかけた。弟が感染症で死んだ。運動が苦手だった。学校の成績が悪くて、学校を中退して靴屋への弟子入りを勧められたこともあった。健康で優秀な兄に劣等感を抱いた。自分以外の兄弟をかわいがる母親と不仲だった。身長は150cmまでしか伸びず、他人から見下ろされるのがコンプレックスだった。

しかし、アドラーは逆境に負けず劣等感をバネにして頑張った。強靭な意志をもって努力を続けた。その結果、立派な精神科医・心理学者として後世に名を残した。

 

現代の日本で、”嫌われる勇気”等がベストセラーとなり、アドラーブームが巻き起こっているのは決して不思議なことではない気がする。実際に、アドラーの生き方や思想に触れて、”勇気づけ”られている人は多いと思う。

 

でも、「アドラーが偉人であるがゆえに、アドラー心理学では多くのことが見落とされている」と僕は思う。

たぶん、アドラーの掲げる目標が高すぎて、現実からかけ離れた極端な理論になってしまっている(極端だからこそアドラーブームが巻き起こったのかもしれないけど)。

アドラーの言う、「原因論より目的論」というのは、あたかも100%正しいように聞こえるけど、あまりに高すぎる目標や現実的でない目的を掲げてしまうのは間違いである。”過ぎたるは猶及ばざるが如し”である。

アドラーの妻や友人が社会主義者だったらしいけど、社会主義の現実離れした思想から多少影響を受けた部分もあったのかも。

 

 

 

僕がアドラー心理学に対して、納得できない(訂正した方が良い)と思う点は、次の3つ。

①トラウマは存在しない

②承認欲求の否定(他者から承認を求めてはいけない、褒めてはいけない)

③幸福とは貢献感である

 

 ①「トラウマは存在しない」について

アドラー心理学において、「目的を重視する」という考え方には納得できる。原因が何かを突き止めるよりも、これからどうするかということを考えることの方が大事、というのは、もっともなことである。

 だがしかし、「トラウマは存在しない」は明らかに言い過ぎである。

 

例えば、僕が風邪のような症状で病院に行ったとする。

僕としては、それが風邪ウイルスだろうがノロウイルスだろうがインフルエンザウイルスだろうが、適切な治療を行ってくれるならば医者に対して何も文句はない。

逆に、正確な病原菌の種類を教えてくれたとしても、治療方法がさっぱりわからない、という医者は嫌だ。原因なんてどうでも良いからとにかく治してほしい。

 

この例の場合、「病原菌なんて存在しない!」と断言してしまうのは明らかに間違っている。「病原菌なんて大した問題じゃない!とにかく治してくれ!」くらいの言い方が適切だろう。

 

つまり、「トラウマなんて存在しない!」じゃなくて、「トラウマなんて大した問題じゃない!」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

トラウマにとらわれず、目的に目を向けることは確かに重要かもしれないけど、だからといって「トラウマが存在しない」と断言するのは明らかにおかしい。

 

②承認欲求の否定

承認欲求を否定するのはやり過ぎだと思う。

 

確かに、他人から褒められることだけに喜びを感じる人は、哀れで不幸な人間だと思う。

承認欲求を否定すれば、そのような不幸な人間になることを防ぐことができる。

が、それよりもっと現実的な代替案がある。

  • 承認欲求以外の欲求を満たすことによって、相対的に承認欲求を小さくする

という方法だ。なにも人間の本能的な欲求を消そうなんて無茶する必要はない。

ゲーム好きな少年が寝るのを忘れて徹夜でゲームができるのはなぜかといえば、少年が寝るのを必死でガマンしているからではなく、ゲームに夢中だからである。この場合、ゲームをしたいという欲求を満たすことによって、相対的に睡眠欲求が小さくなり、寝ることを忘れてしまうのである。

  

それから、アドラーは賞罰教育を厳しく批判したらしい。子供を褒めることすらもダメらしい。

しかし、だからといって「褒めるのがダメ」というのは明らかにやり過ぎだと思う。

褒めることや叱ることそのものが間違っているのではなく、褒め方や叱り方に問題があるというだけなんじゃないかと思う。つまり、不適切な褒め方が悪いのであって、適切な褒め方をすれば良いというだけのことじゃないだろうか。

 

もちろん、何でもかんでも褒めて褒めて褒めまくって子供を育てれば、褒められなければ何もしない子供に育ってしまうかもしれない。

しかし、褒めることで自然と愛情を伝えることはかなり重要だと思う。”適切な褒め方”で子供を褒めれば、普通に自立した子供に育つんじゃないだろうか。

(”適切な褒め方”というのは、例えば、”子供が自発的にしたことについて褒める”、”成功や失敗ではなく、努力そのものを褒める”、”他人と比較して褒めるのではなく、子供自身の成長を褒める”…etc)

 

 

③幸福とは貢献感である

確かに、他の誰かに貢献していると感じることは、幸福感のひとつの種類であると思う。しかし、幸福は貢献感だけではない。というかむしろ、人によっては、それ以上の幸福感が存在する。

 

ビートルズが大好きな友人が、「ジョンとポールがハモり、ビートルズが演奏する。それだけで最高じゃないか」と言っていたんだけど、例えば、ジョン・レノンにとって、「良い曲を作って、歌って、演奏する」以上の幸福はありえないんじゃないだろうか。誰かに貢献するとか貢献しないとか、”イマジン”で反戦ムードが高まったとか、そんなことは彼の幸福感に全く影響を与えなかったんじゃないだろうか。

 

アドラー心理学では、「共同体感覚を持って、他者に対して貢献する。それだけで最高じゃないか」みたいなことが言われているけど、確かにアドラーにとっては貢献感こそが幸福だったんだろう。でも、全ての人がそうではない。貢献感以外の幸福は存在しないというのは明らかに言い過ぎである。

 

「幸福とは貢献感である」と断言してしまうと、貢献感以外の幸福がまるで存在しないかのように感じる人もいると思う。だから、「貢献感によって幸福を感じることができる」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

「能力不足」でクビになった大阪市職員は「ADHD」だと思う

大阪市橋下徹市長の主導で2012年に制定された「職員基本条例」に基づいて、職員2人が民間で言う解雇にあたる「分限免職」の処分を受けた。

2015年9月30日付で免職になったのは、都市整備局の男性技術員(43)と港湾局の男性事務職員(33)。それ以外にも同局の女性事務職員(46)が降任(降格)処分を受けた。


免職の理由は「能力不足」。

大阪市人事によると「1年以上かけて指導等を実施してきたが、公務員として通常要求される勤務実績や適格性が欠けていると判断し、免職処分とした」とのことだ。



具体的には、次のような点が「能力不足」だったらしい。

①事務手続きで初歩的なミスを繰り返し(エクセルに正しく数字を打ち込めない)、常に他の職員の支援が必要な状態だった。

②指示された書類作成の仕事ができたか上司から尋ねられて「作っています」と作業完了を報告したにもかかわらず、実際には着手すらしていなかった。上司が問いただすと意味の分からない言い訳を繰り返した。

③いわゆる「ホウレンソウ(報告・連絡・相談)」ができないなど、上司や同僚とコミュニケーションが取れない状態が続いた。

④昼休みの時間を守らない。


Twitter”や”Yahooニュース”でのコメントを見ると、
「免職になった大阪市職員はADHD等の発達障害ではないか?」
といった声がちらほら存在した。


はたして、免職になった大阪市職員は、ADHDなのだろうか?



ここで、ADHDについて良く知らない人のために、ADHDについて少し説明することにする。

ADHD(注意欠陥・多動性障害)とは、発達障害のひとつである。

ADHDの人間には、次のような先天的な脳の機能不全がある。

・注意力や集中力を自分の意志で適切にコントロールする能力が低い。

・脳のワーキングメモリ(短期記憶)の容量が小さい。

 

このような脳の機能不全のために、普通の人と比べると、次のような特徴が、頻繁に現れてしまう。

・自分の関心が無いことに関しては、注意散漫で忘れっぽく、ミスが多かったり、別のことを考えて人の話が耳に入らなかったり、眠たくなったりする。

・自分の関心があることに関しては、高い集中力を発揮して、パフォーマンスが向上することがある(その間は周りが全く見えなくなってしまう)。

・ワーキングメモリの容量が小さいため、整理整頓が苦手。

・周囲の状況や相手の気持ちを汲み取るための注意力が乏しく、他人とのコミュニケーションが苦手である。

・自分の関心が無く苦手な仕事に、集中力を発揮することに対して、強い抵抗感・ストレスを感じるため、やるべき仕事を先延ばしされ、山積みになりがちである。その結果、期限がしばしば守れない。

・後々のことを計画的に考える能力が低い上に、嫌なことを先延ばしたいという気持ちが強いため、ともかく「その場がしのげればいい」という安易な考えから、嘘をついてしまう傾向がある。




上記のことを踏まえると、大阪市職員の「能力不足」な点と、ADHDの特徴は、とても良く似ているような気がする。



この大阪市職員がADHDだと仮定すれば、「能力不足」と言われている点について、全て説明がつく(下記の通り)。

・エクセルの入力ミス
 → 不注意によるケアレスミス

・書類作成の仕事に着手していなかった
 → 先延ばし癖

・意味の分からない言い訳
 → その場しのぎの嘘をつく傾向

・上司や同僚とのコミュニケーションとれない
 → コミュニケーションが苦手

・時間が守れない
 → 時間管理が苦手


僕は医者ではないし、大阪市とは縁もゆかりもないので、絶対にADHDだと言い切ることは絶対に不可能である。


しかし、彼らはADHDであることは、何となく間違いないという気がしている。

というのも、正直に言うと、僕自身がADHDであり、かつクソ公務員だからである。

なので、僕は、今回クビになった大阪市職員に対して、少なからぬ同情の念を抱いている。



Twitter”や”Yahooニュース”のコメントで、

「なぜこのような人材を採用したのか?」
「こんな低能力のやつが公務員試験に受かるわけない。」
「コネ採用に違いない。」

というのが結構あった。


ADHDの公務員として、僕の個人的な意見を述べたい。


ADHDの人間は器用にコネを使って採用を勝ち取れるほどの、高いコミュニケーション能力を持っている人間は少数派だと思う。

たまたま自分の親が大阪市職員だったというのはあり得るかも。


僕が思うに、ADHDの人間にとっては、コネ採用なんかより、普通に公務員試験を受けて採用される方がよっぽど簡単である。

ADHDでも、高学歴で、勉強だけは人並み以上にできるという人間はたくさん存在する。

公務員の筆記試験くらいなら、大学受験を乗り越えたADHDであれば、難なく突破できるはずである。


問題になるのは面接だ。

しかし、面接官が、多くの就活生の中から、面接を行うほんの一瞬の短い間に、ADHDの気配を感じ取り、不採用にするという芸当は難しい。

公務員試験の面接向けの対策本は本屋に行けば容易に手に入るので、民間と比べると対策がしやすい。

面接中の短い時間の間だけであれば、ADHDを何とかごまかすことも決して不可能ではない。


というかそもそも、ADHDを持っている当の本人ですら、自分がADHDであることに気づいていないという場合も多い。

「学生の間はちょっと変わった奴といわれるくらいで結構何とかなっていたが、社会人になってからどうしようもない壁にぶつかって初めて、自分がADHDであることに気づく」というパターンも多い。

本人が20年以上かかって気づけないようなADHDを、初対面の面接官が見抜くなんて、絶対に不可能だろう。



そんな感じで、ADHDの人間が公務員試験に受かってしまうということは、十分起こりうる。僕がそうだったように。



そのような「能力不足」の人間が、公務員になってしまうということは、とても不幸なことだ。

まず、市民にとって不幸なことだ。無能な人間のために税金を払わなければならないし、市民に対するサービスも低下するだろう。

次に、大阪市の他の職員にとっても不幸なことだ。
ADHDの部下がいたら、大変だろう。
特に、運悪く直属の上司になってしまったら本当に地獄だろう。

そして、「能力不足」である本人にとっても、非常に不幸なことだ。

公務員という職業は、ADHDにとって最悪だと思う。

起業家にはADHD気味の人間が多いと聞いたことがあるが、起業家の正反対とも言うべき”公務員”という職業は、ADHDの人間にとっては最も不向きな職業のうちのひとつである。

例えば、

・無駄に細かい事務作業が多い。
 → 不注意からのミスが多い。

・書類の量が多い。
 → 整理整頓が苦手で机が一瞬で山積みになる。

・市民、関係機関、関係部署、民間業者等との調整や協議が多い。
 → コミュニケーション能力が圧倒的に不足する。

・細かいスケジュール管理能力が必要とされる。
 → 時間管理ができず締め切りを破りまくる。

・数多くの法律、条例、基準等のルールを遵守しなければならない。
 → ADHDのほとんど唯一の長所である”個性”が殺される。

といったところが、ADHDにとって公務員という職業は圧倒的に不向きであると僕は感じる。

かといって、民間に向いているわけでは決してないから、自分がどんなに公務員に向いていないと自分で理解していても、「公務員を辞めて他に行き場所なんてどこにもない」と感じている不幸なADHDの公務員は全国的に一定数は存在するはずである。

不向きな職業だと分かっていながら、辞めるに辞められず、定年まで日々苦痛を感じ続けるのは、とても不幸なことではないだろうか。



だから、このような形で大阪市職員がクビになったことは、市民にとっても、市職員にとっても、本人にとっても、とても良いことだと思う。



ただ、僕が心配なのは、大阪市は、彼らに対して「1年以上かけて指導等を実施してきた」とのことだが、その一年の間に、「彼らは何らかの病気ではないか?」という疑いを持って、病院に行くのを勧めるくらいはしただろうかということだ。

まぁ仮に病院に行って、彼らがADHDであることが判明したとしても、大阪市の中でADHDが働ける環境を作り出すというのは容易なことではないだろう。

結局、障害者だろうが何だろうが、公務員として「能力不足」な人間をクビにすることは正しい。圧倒的に正しい。

が、ひょっとしたら、「能力不足」だった職員にぴったり合うような他の部署が大阪市の中に見つかって、適切なサポートを受けることによって、大阪市にとって有益な職員に化けるという可能性もゼロではない。



発達障害の人間の多くは、「自分の好きなことに関しては、過度な集中力を発揮し、とことんやる」という長所を持っている。

長所を生かせる環境さえあれば、その分野で一角の人間になれるかもしれない。

実際に、ADHDアスペルガー等の発達障害の傾向を持っている著名人は数多く存在している。

もちろん、自分の好きなことをどれだけ追求しても、それが全く世の中に役に立たないことだったり、好きなだけでは全然結果が伴わなかったりして、結局は不本意な選択肢を選ぶしかないという場合もあるだろう。

でも、せっかく普通の人間とは違う脳みそを持ってこの世に生まれてきたんだから、リスクを負ってでも好きなことをとことん突き詰めてやってみることが幸せなことではないだろうか。



最後に、アメリカの話だが、とても興味深い話がある。

ADHDの成人は高校や大学を中退して、教育プログラムが完了できなかったり転職や欠勤が多かったりするために、一人平均の年間合計で、ADHDでない者に比べると1万ドルの収入損失(年収が低い)と考えられる。アメリカでは成人人口の4.3%、800万人以上がADHDを有すると研究で見積もられている。従って、全米にすると770億ドルの損失につながると試算された。ADHDはアメリカにとって非常に損失の多い医学的状態の一つかもしれない」らしい。

2015年時点で、アメリカの人口は321.24百万人、日本の人口は127.73百万人である。

1$=120円、日本でも成人人口の4.3%がADHDであると仮定した場合、日本国内では、年間約3兆6千億円の損失が発生しているということになる。

どちらかというと、アメリカの方がADHDの人間が暮らしやすそうなイメージなので、日本での損失額は約3兆6千億円よりも多いかもしれない。



ADHDは少数異民族のような存在かもしれないけど、彼らがその長所を生かせるように周りの人間が適切にサポートするということは、日本という国家にとって非常に有益なことなのかもしれない。