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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

”人は怒りを捏造する”にどうしても納得できない人へ【アドラー心理学】

アドラー心理学のベストセラー、嫌われる勇気の中で、こんな事例が挙げられている。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。普段は温厚な私だけど、その時ばかりは怒りに駆られて、つい思わず大声で怒鳴りつけてしまった。」

 

この事例をアドラーの目的論で解釈すると、こんな風に言い換えることができる。

「ある日の午後、私が喫茶店で本を読んでいたら、通りかかったウェイターが私の一張羅の上着にコーヒーをこぼした。大声を出して怒鳴りつけることで、ミスを犯したウェイターを屈服させ、自分の言うことをきかせるための手段として、怒りという感情を捏造し、利用した。」

 

つまり、

「私はウェイターにコーヒーをこぼされた」ことが原因で仕方なく怒ってしまったのではなく、「大声で怒鳴りつけてミスを犯したウェイターを屈服させる」という目的のために怒りの感情をわざわざ捏造した。

というのがアドラーの目的論的な考え方である。

 

 

嫌われる勇気を読んでいて、僕が疑問に思ったのは、「”ミスを犯したウェイターを屈服させる”みたいな複雑な事を一瞬のうちに考えて怒るほど人間って高度な生物なのかなぁ?」ということ。

しかも、それが正しいという科学的根拠があるとは一切述べられていない。

 

疑問に思った僕は、自分なりに調べてみることにした。

 

先程の「ウェイターがコーヒーをこぼして私が怒った」という事例において、私が怒るに至った経緯を簡単に説明すると、次のようになる。

  1. ウェイターが私にコーヒーをこぼす
  2. 私に外的刺激が与えられる(私にコーヒーがかかる)
  3. 外的刺激に対して、機械的な生体反応(緊張・発汗・心拍増加・血圧上昇…etc)が起こる
  4. 自分の機械的な生体反応を私自身が認知する
  5. 今までの常識や習慣に基づいて、今自分が置かれている状況に適切な感情を選択する(感情をラベリングする)
  6. 選択された感情が”怒り”である場合、”怒り”の感情に基づいて行動を起こす
  7. 大声を出してウェイターに怒鳴りつける

これらのことが無意識下で一瞬のうちに行われる

 

どのような順序で感情が生まれてくるかというのは未だに結論が出ていないらしい(情動を巡る論争)けど、”シャクターの情動二要因理論”が一応主流っぽい気がしたので、ここではそれを参考にした。

シャクターの情動二要因理論で有名なのは、吊り橋実験である。

この実験では、被験者の男性は「吊り橋を渡る恐怖感によるドキドキ」を「魅力的な異性と対面したドキドキ」と間違えて認知してしまう。

つまり、同じ生理学的変化(心拍数の増大や緊張の増大)から、生理学的変化がどういった感情や状況によるものなのかを推測して、適切な感情をラベリングするという無意識的(潜在的)な過程が存在すると考えられている。

 

 

で、もう一度「ウェイターにコーヒーこぼされた事件」に話題を戻す。

例えば、「ウェイターが筋肉ムキムキ身長2mの黒人男」だった場合を考えてみて欲しい。おそらく、私は怒りの感情をラベリングするのではなく、恐怖の感情をラベリングして、大声で怒鳴りつけることは絶対にしなかっただろう。

今度は、「ウェイターが魅力的な異性」だったらどうだろうか。この場合は、怒りでも恐怖でもなく、恋愛感情をラベリングして、連絡先を交換しようとするかもしれない。

 

 つまり、「無意識下において、その場その場における適切な感情を選択している」ということが言えるんじゃないかと思う。

 

 

結局、アドラーのいう「人は怒りを捏造する」は、少し間違えていると思う。

「人は怒りの感情を選択する」くらいの表現に訂正すべきだと思う。

 

「人は怒りを捏造する」というと、あたかも自分の感情を自由自在に変えることができるような錯覚に陥ってしまう。

しかし、実際には、感情をラベリングするのは無意識下のことなので、自由自在に感情を変えることはできないはずだ。

もちろん、無意識に体に染みついたその人の習慣や常識を、少しずつ変えていくことも可能だと思う。しかし、それは「地道にスポーツを練習してだんだん上手くなっていく」のと同じように、強い意志を持って努力しなければ、無意識下の習慣や常識は簡単には変えられないのが普通なのではないだろうか。

あたかも「アドラーの教えを聞いたら途端に自分が変わって幸せになる」みたいな文章を見かけることもあるけど、そんなウマい話があるわけない。やはり、「自分を変えるには、無意識下の習慣や常識を地道な努力によって変えていくほかない」し、「もちろん地道な努力をしたところで本当に自分が変われるという保証も全く無い」ってのが現実なんじゃないだろうか。