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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

親鸞のやさしさに包まれたなら 全てのことはメッセージ

哲学 宗教

最近、「100分de名著」というNHKの番組を見るのがマイブームなんだけど、”歎異抄”の回を見て、すごく感銘を受けた。神仏を1ミリも信じないこの僕が。

 

歎異抄は、親鸞の教えについて親鸞の弟子が書いた本らしい。

僕が中学生の頃、鎌倉仏教の3人(法然親鸞・一遍)について習ったけど、「一遍の踊り念仏は逆にロックンロールでかっこいいから良いとしても、ナミアムダブツと唱えるだけで、”他力本願”で人が救われるという法然親鸞だけはありえない!」みたいな感想だった気がする。

 

歎異抄は「誤解されやすい本」と言われているらしいけど、僕はどうやら今まで親鸞の言う他力本願を誤解していたらしい。

 

僕は、親鸞の教えを、自分なりにこんな風に解釈した。

  1. まず、「自分の力で何かを変えよう」という一切の努力を放棄する。
  2. ”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、あるがまま受け入れる
  3. あるがままの”自分自身”および”自分を取り巻く世界”を、阿弥陀如来というありがかい神様が、「もう自力で頑張らなくても良いのよ」と抱きしめて許してくれる
  4. すると、かえって逆に、「阿弥陀如来がいくら全てを許してくれるとは言っても、おれはここだけは絶対にゆずれねえ!」というような、自分の心の奥底にある自然な意思に気づくことができる
  5. 自力で無理矢理に頑張るというのではなく、自分の自然な意思に従って行動できるようになる

僕は阿弥陀如来の存在なんて1ミリも信じていないけど、やさしい微笑を浮かべた阿弥陀如来をイメージして目を閉じてみたら、なんだか心が軽くなるような気がした。

阿弥陀如来の存在はウソだったとしても、庶民を救いたいがために、一生懸命こういうことを考えてくれた法然親鸞のやさしさは紛れなく本物に違いないような気がしてきて、それだけですごく有り難い気持ちになったような気がした。

 

 

 僕の妄想なんだけど、たぶん、法然はやさしさの塊のような人間で、「修行僧以外の普通の人を救いたい」という一心から、阿弥陀如来を利用して、それまでの仏教のやり方を180度逆転させるような革命的なことをやってしまって、親鸞と仲良く一緒に流罪になった。法然はやさしいだけでなく、ロックンローラー的な性格だったのかなぁ。

 

親鸞もやさしさとロックンロールを兼ね備えた人だけど、僧侶のくせに堂々と結婚して6人も子供を作ったところとか、法然以上にロックンロール色が濃いかも。

たぶん、法然に出会う前の親鸞は、「このまま修行を一生続けたとしてもおれの煩悩は一生消すことはできないのではないか?」ということに悩んでいた矢先に、法然阿弥陀如来方式の教えに出会い、そしてだんだんと親鸞オリジナルの方向へとルールを修正していったんじゃないかなぁ。

 

法然親鸞も、今までの仏教にはとらわれずに、「ともかく世の中の人を救いたい」とか、「どんなに修行しても消せない自分の煩悩にウソをつきたくない」とか、そういう思いが根底にあったんじゃないかなぁ。「人が救えるんなら神仏がいようがいまいがどっちでも良いじゃん」とか言いそう(さすがに言わんか)。

だから、たまたま仏教が流行ってた時代の日本に生まれたけど、もし生まれる時代や場所が違ったら、普通に政治家とか、哲学者になってたんじゃないだろうか。