読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

人間失格に学ぶ”幸福の観念”

倫理 文学

NHKの”100分de名著”の太宰治の「斜陽」第4回目で、ピースの又吉(太宰の大ファンらしい)が「太宰を再読すると新しい発見がある」みたいなことを言ってたので、僕も太宰を再読することにした。

 

太宰を再読するとは言っても、僕が読んだことがあったのは、国語の教科書に載ってた「走れメロス」と、大学4年生の時に研究室になぜか置かれてた「人間失格」を暇つぶしに読んだのと、合計2つだけだった。

 

人間失格」を読んだ大学4年生の僕は、「これは太宰治の遺書なんだ」としか思えなくて、「太宰治の遺書を今自分は読んでいるんだ」って視点で読んでたら、面白くて面白くて一気にすらすら最初から最後までノンストップで読んでしまったような記憶がある。

 

 

で、今になって、「人間失格」を再読してみたら、「やっぱり基本的には小説で、死ぬ直前の太宰が本気出して小説を書いたら結果的に遺書みたい作品ができたのかも」って視点で読んだから、正直、初読のときほどは面白くはなかったんだけど、そのかわりに、一歩引いた視点で読めたというか、「太宰治って普通の人間とどういうところが違ったのかなぁ?」という視点で読んだら、初読のときは全然気付かなかったことに気付いた。

 

 

太宰治のいう幸福と、一般人のいう幸福は、何が違うのか?

 

  • 太宰治は、金持ちの家に生まれ、頭が良くて、女にモテモテの絶倫で、小説家としても天才だった。
  • 一般人は、貧乏な家に生まれ、頭が悪くて、異性にモテることはなく、特別な才能も一切持っていない。

はたして、太宰治と一般人のどちらが幸福だろうか?

 

 

人間失格には、こんなことが書いてある。

 つまり自分には、人間の営みというものがいまだに何もわかっていない、という事になりそうです。自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転輾てんてんし、呻吟しんぎんし、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。
 自分には、わざわいのかたまりが十個あって、その中の一個でも、隣人が脊負せおったら、その一個だけでも充分に隣人の生命取りになるのではあるまいかと、思った事さえありました。
 つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。プラクテカルな苦しみ、ただ、めしを食えたらそれで解決できる苦しみ、しかし、それこそ最も強い痛苦で、自分の例の十個の禍いなど、吹っ飛んでしまう程の、凄惨せいさんな阿鼻地獄なのかも知れない、それは、わからない、しかし、それにしては、よく自殺もせず、発狂もせず、政党を論じ、絶望せず、屈せず生活のたたかいを続けて行ける、苦しくないんじゃないか? エゴイストになりきって、しかもそれを当然の事と確信し、いちども自分を疑った事が無いんじゃないか?

 

金持ちでモテモテで売れっ子作家だったのに、太宰治はとても苦しんでいたらしい。

 

 

太宰にとって、幸福は”財産の大小”や”家族・恋人の有無”や”才能の有無”で決まるものではなかった。

 

大雑把に言うと、宝くじの高額当選者が意外と不幸な人生を歩んでしまうように、太宰は生まれ持っての金持ち・モテモテ・天才だったからこそ不幸になってしまったのかもしれない。

 

たぶん、生まれ持っての金持ち・モテモテ・売れっ子天才作家だったからこそ、

  • 他人から妬まれる
  • 「もっと金持ちになろう」「モテモテになろう」みたいな目標を掲げることができず、虚しくなってしまう
  • 一般人には太宰が恵まれた”仕合わせ”者にしか見えないため、その虚しさや苦しみを一般人には理解してもらえない。

もし太宰が貧乏で狭い家で生まれ育っていたら、少なくとも、性的虐待をするような下男下女と関わることはなかっただろうし、他人から妬まれることは少なかっただろう。

 

結局太宰にとっての幸福はなんなのか?というと、「幸福=苦しみを消すこと」だったんじゃないかなぁと僕は思う。

 

とにかく、太宰は苦しくて苦しくてたまらなかったらしい。

 

たぶん、太宰は「他人からどのように見られるか?」ということに敏感で、対人恐怖を感じすぎる性格であった。

その対人恐怖には良い面も悪い面もあったと思う。

 

良い面としては、対人恐怖をまぎらわすために、他人を笑わせるために無償のサービス精神を幼少の頃から発揮してきたからこそ、作家としての才能が磨かれたというところがあると思う。太宰治の根底にある理念として、「対人恐怖から生まれた無償のサービス精神」というのがある気がする。

 

悪い面としては、対人恐怖を必死になって隠ぺいしてしまうから、本当の性格が他人に理解されないというのがあると思う。

あと、「無償のサービス精神」を持っていた太宰は、他人に対して自分の損得を度外視してやさしく接する性格だったから、自分の損得だけを考えて行動する人間のことが理解できなかったし、許せなかったんじゃないかと思う。

 

普通の人間だったら、「人間なんて所詮自分のためだけに生きるものだよね」という風に、ある程度は割り切って生活しているもんだと思うけど、太宰はその辺に強いこだわりがあった。

司馬遼太郎は、「太宰は聖なるものを求めた作家」だと言ったらしい。やっぱり根っこの部分においては、名家に生まれた身として聖なるプライドを持っていて、だからこそ、世間に蔓延するエゴイズムに対して怒りを隠すことができなかったのかも。そういう怒りを他人にぶつけてしまって、普段から妬まれてるからよけいに反感を買うし、誤解もされるし、ますます太宰の人間不信や対人恐怖を増幅させるという負のループに入ってたのかも。

 

 

この日記のタイトルに戻るけど、太宰治の”人間失格”から、幸福の観念について何を学べるだろうか?というと

  1. 幸福をお金や才能に求める必要はない
  2. 他人からどう思われるかを気にしない
  3. 肝要な心を持つ

の3つにまとめるくらいが無難な気がする。

 

 

この日記を書き始める前は、本当のところは、「幸福とはお金や才能の有無じゃなくて、寝食忘れて何かに熱中することである!太宰は作家という天職についていたから、そういう意味では太宰は幸福だったはずだ!」みたいなことを僕は言いたかったんだけど、そんな幸福とは比較にならないくらいに、太宰の抱える苦しみが重すぎる気がしたから、やっぱり「人間失格に学ぶ”幸福の観念”は何か?」という問いに対しては、「幸福=苦しみを消すこと」という答えの方が妥当かもしれないとということに気付いた。ピース又吉が言ってた通り、太宰を再読したら新しい発見がいくつもあった。

 

ところで、人間失格を再読したついでに、斜陽とお伽草子津軽を読んだ。お伽草子は、普通に思わず笑わせられたところがいくつもあった。斜陽は、かず子が上原へ何回も手紙を送りつけるところとか、女性特有のわけのわからなさが強烈に感じられる気がしたけど、その辺は絶倫太宰の観察力と文才のなせる技なのかなぁ。たぶん今後僕は定期的に太宰を再読してしまう気がする。あと、太宰を超お手軽に読ませてくれる青空文庫に感謝。