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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

受動意識仮説のおかげで長年の謎がすっきりした!!

哲学 科学 受動意識仮説 哲学的ゾンビ

最近、youtubeで無駄知識を増やすのがマイブームなんだけど、その一環で、昨日、何となく面白そうだと思って見てみたのが、慶応大学の前野隆司氏の受動意識仮説についての講義の動画だった。めちゃくちゃ面白かった。僕が子供の頃から不思議に思っていた哲学的な問題が、やっと解決した。ネットでこんな講義を無料で見られる時代に生まれて良かったなぁと思った。

 

 まず、個人的に昔から疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について述べる。

僕は、子供の頃から朝起きるのが苦手で、いつも遅刻するかしないかのギリギリまで蒲団から脱出できなかった。特に、寒い冬の朝なんかは、起きるのが苦痛だった。暖かい毛布にくるまりながら、「もう一生この暖かい蒲団から起き上がりたくない」という気分になるのが日常茶飯事だったんだけど、意外と、一生起き上がる事が出来なくなってしまった、なんて事態は一度も起こらなかった。

どんなに「蒲団の外に出たくない!」と心から強く念じていても、ある瞬間、ふと、やる気が湧いてきて、何とか暖かい毛布から這い出して、服を着替え、朝ごはんを食べて、ドアを飛び出して、学校や会社に向かっている途中で、ふと憂鬱な気分になり、「あれ?おれはいつの間に電車に乗っているのだろう?あんなに起き上りたくなかったのに、なんで起き上がる事ができたんだろう?」なんて思ったりした事が、何度も何度もあった。

この、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」について、僕は深く考えた。この問題はたぶん、「人間は自動ロボットのようなものである」と考えれば上手く説明できるのではないか、という結論に僕は辿り着いた。例えば、ボーリング玉に衝突されたピンが、運動法則に従って飛び跳ねるみたいに、人間という自動ロボットも、まぁボーリングよりは複雑な法則に従うにしても、ある衝撃が何らかの物理法則に従って脳みそに伝わって複雑に処理された結果、自動的に、適当な動機を生み出す事により、暖かい蒲団から僕を脱出させているのではないか、と考えたのである。

17世紀の西洋の哲学者のスピノザという人は、僕と似たような考え方の持ち主で、人間を「投げられた小石」に例えたらしい。スピノザによると、人間は、投げられた小石みたいに自分の意志とは関係なく投げ飛ばされただけなのに、自らの力で飛んでいると勘違いしているに過ぎない、というのである。僕のイメージにぴったり当てはまる考え方だと思った。

 

こうして、「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」は、スピノザの「投げられた小石」説にお墨付きをもらって、僕の中では完全に解決されたのように見えた。

 

しかし、そうすると、また別の問題が僕の中に浮かび上がってきた。

本当に僕は、「投げられた小石」が運動法則に従って飛んでいるだけの存在なのだろうか。例えば、ジャンケンで、僕がグー・チョキ・パーのどれかを選んで出すという行為についても、僕がどの手を出すのかは、事前に無意識下で決められているとでも言うのだろうか。まるで運命みたいに、ジャンケンの勝ち負けがあらかじめ決まっているみたいな事があり得るのだろうか。僕は今まで、ジャンケンの時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!チョキを出そう!」と考えてから、チョキを出していたはずなのに。

もし「投げられた小石」説が正しいならば、ジャンケンの手は、「僕はチョキを出そう」と決断する前に、無意識下で既にチョキを出す事は決定されているという考え方が正しい事になる。でも、常識的に考えて、本当にそんな事ってあるだろうか?やっぱり「投げられた小石」説は間違っているのだろうか?

例えば、「チョキを出すぞ!」と一回決断した後、手を前に出す直前、「いや、やっぱりグーだ!!」と思ってグーを出した場合はどうだろうか。とっさに出したグーですら、やっぱり、自動ロボットのように、投げられた小石のように、咄嗟にグーを出す事が運命だったみたいに、自分の意思とは関係なく決まっていたのだろうか。僕のモヤモヤは消えなかった。

 

それが、つい昨日、前野氏の講義おかげで、きれいに解決した。

 

なんと、僕がジャンケンで感じていた疑問と、ほとんど同じような疑問を、なんと今から33年前に、きっちりと実験によって解決してくれていた人がいたのだ。

その実験とは、 カリフォルニア大学のベンジャミン・リベットという人によって行われた、「”指を動かそう”と意図する実験」である。

この実験では、

  1. 指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられる瞬間
  2. ”指を動かそう”と意図する瞬間
  3. (最終的に指の筋肉が動く瞬間)

のうち、①と②はどちらの瞬間の方が早いか?というのを調べたらしい。日常的な感覚で普通に考えると、②”指を動かそう”と意図した後に、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられて、③最終的に指の筋肉が動く、という順番が正しいはずである。

つまり、②⇒①⇒③という順番が正しいと思われる。指を動かす時は、ちゃんと自分の意識の中で「よし!指を動かそう!」と考えてから、脳の指令が発せられて、その指令が指に到着して、指が動き出す、というのが自然な考え方である。

しかし、実験の結果は違った。

なんと、②”指を動かそう”と意図するよりも、0.35秒前の段階で、①指を動かすための筋肉への指令が脳から発せられていた、という驚くべき実験結果が出たのである。

つまり、①⇒②⇒③という順番が正しかったのである(ちなみに②⇒③は0.2秒差だったらしい)。

 

なぜこんな実験結果が出るかを説明するための理屈が、「受動意識仮説」だというのである。

 

受動意識仮説とは、「人間の意識は、無意識下の自律分散的情報処理結果に受動的に注意を向け、あたかも自らが行ったかのように幻想体験し、エピソード記憶するための(無意識に対して受動的な)存在である。」という仮説である。

 

人間の意識は、人間の行動を決定する存在ではない。ただ単に、無意識下で作られたエピソード記憶を体験するだけの存在なのだ。だから、実は、意識する前の時点で、自分の行動は全て無意識下で決定済みという事になる。無意識下で自動的に情報処理がなされた後、指を動かすという指令が脳から筋肉に向けて発信されて、その指令が発信された0.35秒後にやっと、「指を動かそう!」という意思を受動的に感じる事ができるのである。

 

「指を動かす実験」の他にも、受動意識仮説を裏付ける実験結果はどんどん出て来ているらしくて、僕の見た前野氏の講義の中だけでも、いくつかの興味深い実験が紹介されていた(特に、分離脳患者の実験が面白かった)。

 

この受動意識仮説は、今まで僕が聞いた中で、一番しっくりきた。

今まで疑問に思っていた「いつの間にか蒲団から脱出してる問題」も「ジャンケン問題」も、全てこれで説明ができるし、本当にすっきりした。意識のあるロボットは、物理的な問題さえクリアできれば普通に作れるようになる日が来るかもしれないと思った。

 

まとめ

  • 人間は、エピソード記憶を作るために、意識を体験している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るための機能として存在している。
  • 意識は、エピソード記憶を作るために、無意識下において自動的に行われた無数の情報処理の結果を、あたかも意識自身が自分の意図で情報処理したかのように幻想体験するだけの脇役みたいな存在である。
  • 意識という存在は、何らかの行動を起こすために存在するのではない。「指を動かす実験」の通り、無意識下で指を動かすという決定が下された後でなければ、「よし!指を動かすぞ!」という意思を持つ事すら出来ない。

 

 

ところで、哲学的ゾンビについて、受動意識仮説を当てはめて考えると、哲学的ゾンビは存在しないという結論に思い至った。

哲学的ゾンビは、「普通の人間と全く同じだけど、意識を全く持っていない人間」と定義されるけれど、”意識を持っていない哲学的ゾンビ”は、”意識を持っている人間”と比べて、エピソード記憶を作る能力にどうしても差がついてしまうのではないだろうか、という気がする。

受動意識仮説によると、「意識」=「エピソード記憶を作るための機能」という事が言えるけど、哲学的ゾンビは意識を持っていないので、エピソード記憶を作るための機能」も持っていない哲学的ゾンビエピソード記憶を作るための機能」を持っていないという事は、人間と同じようなエピソード記憶を作る能力を持っていない。

果たして、エピソード記憶を作る能力を持っていない哲学的ゾンビは、人間と同じように振舞う事が出来るだろうかというと、たぶん無理だろう。人間と同じように振舞えない哲学的ゾンビは、「意識を持たないということ以外は全て普通の人間と同じ」という哲学的ゾンビの定義に反する事になるため、哲学的ゾンビは存在しない、という結論が導き出せるのではないだろうか。

正直、僕は哲学的ゾンビの話が好きなので、「哲学的ゾンビが絶対に存在しない」だなんて、あまり言いたくないけど、受動意識仮説を当てはめると、そういう結論が出てしまった。誰か間違いを指摘してくれないかなぁ。

哲学的ゾンビについては、また気が向いたら書くかもしれない。

 

ところで、前田氏の受動意識仮説については全面的に納得したけど、前田氏の最新の本が、「人生が変わる!無意識の整え方 身の心もなぜかうまく動き出す30の習慣」というタイトルなんだけど、「意識的に無意識を整えるのって、無理なんじゃないの?」「受動意識仮説と矛盾しないの?」「そんな簡単に人生が変わる!なんて言っちゃって良いんですかねぇ?」という疑問が湧いてしまった。なんだか、浄土真宗でいう「他力本願」という言葉の「他力」というのは、一体、どこからどこまでが「他力」で、どこからどこまでが「自力」なの?みたいな疑問と似ているかもしれない。というような事を、本を全く読んでもいないにも関わらず、妄想してしまった。他力本願と受動意識仮説は良い意味でも悪い意味でも似ている気がしてきた。これらの考え方を理解する事で、心が救われるような人も、堕落する人もいるだろうし、そもそも理解できない人もいるだろうなぁ。僕は、阿弥陀仏なんか全く信じていないのに、「自力によるの努力をやめて、阿弥陀仏の他力本願の力に帰依するだけで良い」という考え方をすると心が軽くなるのは、なぜか自然と理解できる気がするんだけど、「受動意識仮説によって、自分の意思決定の0.35秒くらい前の段階で無意識に全てが決定してくれている」という考え方についても、他力本願の考え方と同じように、心が軽くなる気がした。僕は、阿弥陀仏よりは受動意識仮説の方が断然納得できるんだけど、結局、自分の気持ちを軽くするための道具として捉えるのであれば、僕にとってはどちらでも構わないのかも。

 

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