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林くんの日記

そこには元気に走り回る林くんの姿が!

ブッダより ふつーに ブラックジャックが好き ~釈迦の八正道も風に吹かれている説~

僕とブッダの出会いは運命的だった。

 

当時、僕は、人一倍悩みの多い中学生だった。悩みのひとつに、昼休みに図書室以外に居場所がない、というのがあった(おかげで、手塚治虫ブラックジャックに出会えたと言えなくもない)。

 

ある時、めちゃくちゃ左翼気味な社会の先生のクラスで、ビンゴ大会が開催された(開催の経緯は忘れてしまった)。その、ビンゴ大会の一等の景品が、手塚治虫ブッダ全巻セットだったのである。

僕は、「ブッダが欲しい!」と心から願った。あの手塚治虫が、あの仏教の開祖ブッダについて書いた漫画なら、単に「漫画として面白い」以上の、何か、人生の意味みたいな、めちゃくちゃ重要な真理が書かれているに違いない、ブッダを読めば僕は救われるに違いない、と思ったのだ。

 

なんと、僕の願いは叶った。まるで神憑りのように、僕のビンゴガードの穴はみるみる一直線に空いていき、すんなり僕は一等のブッダ全巻セットを手に入れたのだった。ビンゴの一等が当たるなんて珍しい事なのに、中二病を患っていた僕は、特に驚くという訳でもなく、むしろ当然の事じゃないかと信じ込んだ。そして、僕は夢中でブッダを読んだ。

 

ブッダは、まぁ普通に面白かった。が、単に「漫画として面白い」以上の、何か、人生の意味みたいな、めちゃくちゃ重要な真理、というものは全く感じられなかった(幽閉されたビンビサーラ王を死なせたくない王妃が、自分の身体中に蜂蜜を塗りたくって裸でビンビサーラ王を訪ね、裸体をペロペロされるというシーンがエロかった、という結構どうでも良い記憶だけが残っている)。ブッダは僕を救う事ができなかったという事実は、僕をかなり落胆させた。まぁハードルが高すぎただけかもしれないけど。

 

 最近、本やネットで、哲学や宗教の浅い知識を増やすのがマイブームなんだけど、そのブームの中で、仏教の開祖であるブッダ(釈迦)にも、当然、触れる機会があった。僕は改めて、ブッダの教えというのはどういうものなのか、という事について考えてみた。

 

 ブッダの教えの核心は、「縁起」であると言われている。縁起については、僕は納得できた気がする。確か、「僕という存在は、僕という確かな実体があるという訳ではない。僕という存在は、僕以外のものとの関わり(縁)の中でたまたま起こる現象のような、相対的な存在である」みたいな考え方だった気がする。デカルトの「我思うゆえに我あり」では、「僕という絶対的な存在がある」という考え方が根っこにあるけど、ブッダの縁起の考え方では、僕という存在はあくまで相対的であやふやな存在でしかない。 

「縁起」は納得できるのだけど、僕が一番納得できないのは、「八正道」とかいうものである。「八正道」というのは、煩悩をなくすためにするべき正しい八つの事、みたいな意味だったと思う。しかし、「縁起」の考え方を応用すると、絶対的な「正しさ」というのは存在せず、あくまで相対的であやふやな正しさしか存在しない、と言えるのではないかと思う。という事は、「八正道」ってのも、かなりあやふやで怪しくなってしまう。やっぱり、ブッダの主張する正しさだって、絶対的なものではないという気がする。

 にしても、2500年前のインドで、「縁起」にたどり着いたのは普通に凄いし、さすがお釈迦様という気がする。

 

ところで、西洋哲学では、なかなかブッダ的な考えにはお目にかかれないけど、僕の妄想だけど、そういう西洋と東洋の考え方の違いは、季節風(モンスーン)が吹く地方か吹かない地方かの違い、という気がした。季節風がもたらす恵みや災害が目まぐるしく発生するという環境の中で生活していたからこそ、僕という存在も風に吹かれて流れ去るだけの儚い存在なんだみたいな考え方を受け入れる事が比較的簡単だったのかも(古代ギリシャの哲学者で万物は流転するって言ってた人もいた気がするけど)

 そういえば、ノーベル賞をとったボブ・ディランの「風に吹かれて(Blowin' in The Wind)」の歌詞で、「ただ答えは風に吹かれている」というのがあるけど、それも東洋的なあやふやな歌だったのかもしれない…って一瞬思ったけど、やっぱり、「風の中にある答えを、知ったかぶりすんなよ」という確かな主張が込められていると捉えると、ソクラテスの「無知の知」と似てるって気もするし、やっぱり、西洋的なしっかりとした意見のある歌という方が妥当かも。